満州事変の真相1ー満州独立の理由

満州事変の真相1ー満州独立の理由

1925年の孫文の死後、孫文の意志を継いで「北伐完了」を果たし、一旦は中国に南北統一政府が実現したものの、蒋介石は、独裁断行に加え、反日排日政策を強行し中国北部は不況に陥り、更には、ロシア(旧ソビエト)との対立構造から共産党との対立激化を招きます。1929年3月以降、蒋介石から離反する北部系軍閥との間で、中国中央部や南部の各地では、激しい軍事衝突が勃発していきました。結果、「中国統一」とは形ばかりの実質的には更に激しい「戦乱の時代」となってしまいました。これは、翌年1930年9月、当時、中国の北部東北部を統括していた張学良の停戦調整により終わります。

現在の歴史認識としては、第1次支那動乱=「北伐」での「南北の激戦」の印象が強いため、第2次支那動乱=「中原大戦」は、それ程深刻な印象がないようです。しかしながら、第2次支那動乱では、蒋介石政府により、中国共産党との国内対立⇒ロシア(旧ソビエト)との対立が激化します。更には、この対立が「世界恐慌」の発端を生む事態をも引き起こしました。

「北伐」では北京の無血開城により北部東北部が激戦地となることは回避出来ました。また、この時は、元は北京政府側だった2大軍閥が、蒋介石政府軍側で参戦したので、南部や中央部でも、蒋介石政府の「北伐」に賛同した地域も多かったといえます。そのため、各都市が戦場となり破壊されるなどはあっても、被害規模は、ある程度、限定されていたといえるでしょう。一方、第2次支那動乱=中原大戦では、中国共産党との戦闘も起こり、中国の中央部、南部の各地が戦場と化し、非常に多くの被害損害が生じていたといえます。

蒋介石政府の独裁と北部東北部の独立機運

蒋介石政府は中国の南部にある揚子江流域から南側を主な経済基盤としていました。広大な農業地帯であり、国際貿易で栄えてはいても、北部東北部のような石油や鉄鉱石などは殆ど採掘出来ません。これが、中国の長い歴史の中で、その殆どの時代、北部の異民族による征服王朝により統治された来た最も大きな理由です。北部に対抗するだけの軍事力を支える十分な経済基盤が無いのです。そのため、孫文は、「辛亥革命」を起こすに当たり、まず日本に支援を求め、断られた後は、結局、イギリスに支援を求めることになりました。孫文が「北伐」として、軍事侵攻は行わなかった理由も、これを行えば、イギリスに対して多額の軍事借款が必要であり、それを理由に植民地化のリスクを背負うことを認識していたためです。

一方、蒋介石は、孫文の死後、このイギリスの経済力と軍事力を利用して、中国全土を支配下に置こうと画策したのです。経済力と軍事力を利用とは、政府(国家)として、対外軍事借款の契約を結ぶという意味です。結果、十分な経済基盤を持たない蒋介石政府は、軍事的な支援の全般を、イギリスやフランスなど中国の植民地化を図るヨーロッパ諸国に依存していました。その蒋介石政府が、「易幟」以降は、満州や蒙古東部地域までを統治下に置いたのですから、ロシア(ソビエト)にとっては、自国の極東部の国境に、イギリスやフランスなど対立する西ヨーロッパ勢力が迫って来たことを意味します。これに加え、蒋介石は、イギリスの経済力と軍事力を背景に、ロシア(旧ソビエト)と軍事衝突を目論むかのような動きに出ました。この状況であれば、ロシア(旧ソビエト)が、蒋介石に対して、軍事的威嚇行動を起こしたとしても不思議はありません。そして、蒋介石政府がロシア(旧ソビエト)と戦争になれば、最も影響を受けるのは、ロシア(旧ソビエト)と国境を接する中国の北部東北部(満州や蒙古)の地域です。ここが「戦闘地域」となるからです。結果、仮に、ロシア(旧ソビエト)が満州の都市部へ軍事侵攻して来た場合は、今度は、満州地域とも軍事衝突は避けられません。

当然、中国の北部東北部の満州地域としては、戦乱状態を収め、ソビエトの脅威に対応するためには、その元凶となる蒋介石の政府から分離独立を図るという結論に達したといえます。「北伐」以前より、北部は南部とは政府を別にしていましたし、蒋介石の傘下に入る事で、深刻な不況に陥った上、ソビエトの軍事侵攻の脅威までを抱えるのであれば、敢えて蒋介石に付き従う利点はありません。蒋介石の漢民族政府下の体制に限界を感じた満州民族は、今度は巻き返しを図り、蒋介石政府からの完全分離と満州族の独立を目指していきました。これが、満州事変という、満州国の独立を掛けた軍事クーデターが起きた真の理由です。

満州事変の一般的な理解と真実

現在の歴史では、満州事変の説明は、以下のような内容となっています。

満洲事変は、1931年(昭和6年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が日露戦争で大日本帝国に譲渡された南満洲鉄道の線路を爆破した事件 (柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)のこと。中国側の呼称は九一八事変。関東軍は約6か月で満洲全土を占領した。(Wikipediaより)

Wikipediaの説明では、というより、現在の歴史認識は、すべて「日本が全て悪かった」という、1)第二次世界大戦後のシナリオに基づいて「作られている」ため、また、各事件や紛争などを、2)歴史の流れから「一部を切り取って」焦点を当てた解説となっている傾向が非常に強いため、例えば、そもそも、なぜ満州国を独立させる必要があったのか、なぜ満州国が独立出来たのかなど、それまでの経緯や国内、国外の情勢については、十分な記載が無いようです。そのため、「日本の関東軍が起こした」という結論であっても、それ程の違和感は感じないようになっています。勿論、これまでは、「日本軍は遣っていない」と主張することは、ある意味、タブーでもあったので、戦後処理の関係から誤解が続いてしまっているとも言えます。

しかしながら、満州事変の真相を語れば、これは満州民族を中心とする北部東北部が、蒋介石の政府から分離独立を求めて起こした軍事クーデターであることは明白であり、日本が敢えてそこまで「出しゃばる理由」はありませんでした。日本は、満州蒙古地域から産出される天然資源を輸入し、また、満州蒙古地域を経由してロシア(旧ソビエト)から天然資源を輸入し、現在の様に日本や海外工場で様々な製品を製造輸出が滞りなく出来れば、自国の人命を犠牲にしてまで、戦争を繰り広げる必要はありません。むしろ、中国の南北政府対立からは距離を取りたかったのが本音であるといえます。

日本は、満州(中国)とロシアから、南満洲鉄道の線路網を利用して、天然資源を運搬、本国へ輸入していたのですから、日本軍がこの路線を爆破するなど、そもそも有得ないのです。

一方、蒋介石からすれば、軍事借款の返済原資として、日本が持っていた、南満州鉄道の権益と満州東北部及び内蒙古地域の石油石炭鉄鉱石など天然資源の開発権を狙っており、日本と戦争を起こし、その戦いに勝利し、全ての鉄道権益の譲渡させる事を目論んでいたといえます。

清帝国、その後の北京政府により、こうした権益が守られ、日本は中国の北部東北部(満州)に既に巨額の経済投資を行っていました。中国の北部政府が、日本の経済活動上の「安全」を確保出来れば、日本は何も本土から軍隊を派遣する必要も無く、現在と同様、商社の進出で済んだ話でした。ところが、「北伐」が起き、その後も「支那動乱」は収まらず、蒋介石政府下では北部東北部までが「日本排斥」の波に呑まれ、日本は兵士が銃殺されるなど事件も起こり、現地邦人は生命財産の危機と隣り合わせの状況が続きました。満州民族とは、「蒋介石の排斥」という理由で「利害の一致」に及んだのは確かです。そのため、満州国の独立建国を全面的に支援しました。

しかし、結局、満州蒙古地域での経済活動の一環として、「満州鉄道の鉄道権益」を持っていたために、蒋介石に狙われ中国の南北政府戦争に、半強制的に「巻き込まれる」結果となって行ったというのが本当の状況であったと考えます。

 

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