中原大戦の真相2ー蒋介石と閻錫山

中原大戦の真相2ー蒋介石と閻錫山

1929年(昭和4年)は、1月の易幟、3月の蒋桂戦争、6月の馮玉祥の政権離脱(排斥)と蒋介石による政敵排除が進みました。しかし、9月下旬には、今度は、蒋介石を政権から排斥する動きが出て来ます。この反蒋介石派を主導していた人物は、「北伐」の南部政府軍の4大軍閥(蒋介石、李宗仁、馮玉祥、閻錫山)の内、元々は北部北京政府側であった閻錫山でした。また、10月には、政権から排除された馮玉祥の代わりに、馮玉祥の部下の多く(21名)が連盟し、蒋介石に反旗を翻し、蒋介石討伐を表明することとなりました。

 

「歴史写真」の世界日誌(その月の出来事)には、以下のような記事があります。

★1929年10月11日:
過般来蒋介石氏は広西派及び改革派に対し弾圧手段を講じたるが、是に対し馮玉祥系の孫良誠、宋哲元氏等二十一名の将領連盟の下に各方面に向かい全文一千三百文字に亘る長文の討蒋通電を発したり

討蒋通電とは、蒋介石の討伐の通知です。

上記の、当時、実際に出版されていた月刊誌の記事からは、蒋介石政府の「北伐」による南北政府統一(中国統一)の翌年には、大きく内部分裂していたことが解ります。馮玉祥という人物は、人望の厚い人物だったようで、多くの部下を配していました。上記の記事に記載のある孫良誠、宋哲元以外にも、Widipediaによれば、劉汝明、石友三、佟麟閣、過之綱、馮治安、孫岳・鄭金声・張之江・鹿鍾麟・李鳴鐘・韓復榘、田金凱・吉鴻昌・梁冠英などが配下または同志となっていたようです。

特に、宋哲元、張之江・鹿鍾麟・鄭金声・劉郁芬は、馮玉祥配下の「五虎将」と言われる程の忠臣であったようです。孫良誠、宋哲元ら、連盟した21名は、夫々が軍隊を率いており、馮玉祥が非常に大きな軍事力を掌握していことが伺えます。

 

更に、「歴史写真」の世界日誌(その月の出来事)には、以下のような記事もあります。

★1929年12月3日:
馮玉祥軍と大戦中なる蒋介石軍に寝返りを打つものあり、為に南京は今や一台危機に直面すと伝えられる。

★1929年12月7日:
支那蒋介石氏は今夜南京の私邸に「票」氏其の他首脳部を召集して緊急会議を開き、閻錫山氏の態度如何に依りては政府投げ出しを断行することを議決したり。

★1929年12月8日:
支那唐生智氏その他反蒋派は上海に軍事会議を開き、南京奪取の作戦計画を樹立し着々進軍を開始したりとの報あり。

 

1929年は、蒋介石が、馮玉祥、閻錫山を蒋介石政府より排斥しようとした結果、馮玉祥、閻錫山が反蒋介石派となり、12月には、軍事衝突が起きるまでに、内部対立が深刻化していました。これが翌年1930年(昭和5年)に「中原大戦」と呼ばれる、再度の南北戦争に繋がります。また、この中国平原部での内戦は、「北伐」で蒋介石に奪われた「中華民国」の、北部政府側による奪回戦線だったともいえます。

唐生智

ここで注目すべきは、当時、唐生智に関する記載です。唐生智は、1937年12月の南京攻略の際に、蒋介石政府軍の南京防衛において総指揮官であった人物です。そのような人物が、1929年12月時点では、反蒋介石派であり、蒋介石政府の政府所在地であった南京に向い、軍事侵攻を行っていたという事実です。

更に言えば、唐生智は、蒋介石政府軍で首都南京の防衛の総指揮官であったにも関わらず、第二次世界大戦後は、蒋介石が逃亡した台湾へは行かず、中国本土に留まり、中華人民共和国の建国後は、中国共産党政府下で、湖南省人民政府副主席などの要職を歴任しています。

蒋介石は、毛沢東の2人めの妻を処刑するなど、共産党とは敵対関係にあったことで有名です。この敵対する蒋介石政府の要人だったにも関わらず、中国共産党政府下で、要職を得る待遇であったことから、唐生智は、蒋介石政府には属していたものの、実質的には、反蒋介石派であり、共産党との関係も深かったと言えるでしょう。

そのように考えれば、1937年の南京攻略の際、自ら志願して首都警備司令官の長官となり、中国側の南京防衛戦の最高指揮官となったことも、蒋介石政府を潰す為に、蒋介石政府に入り、首都防衛を任されるほどの信頼関係を構築し、計画的に「裏切った」とも言えるでしょう。

 

昭和5年7月(1930年7月)発行「歴史写真」から
昭和年5月(1930年5月)-四面楚歌の声の蒋介石から

写真拡大ー蒋介石夫妻を独裁者と風刺したポスター

蒋介石は、歴史の一般知識としては、孫文の意志を継いで「北伐」を行い、南北中国を統一した人物となっています。その後は、まるで蒋介石だけが「中華民国の代表」(中国全土の国家元首)のように理解されていますが、実際は、政府発足当初より、離反者が続出し、決して一枚板といえるような体制では無かったのが真相です。

馮玉祥、閻錫山など、元は北京政府側だった人物達は、一度は、蒋介石の可能性を信じたのでしょう。しかし、その残忍で独裁的な人間性や政府統治能力の無さから、蒋介石に対して政権指導者としての信頼を完全に失い、その結果が、再度の南北戦争(中原大戦)であり、満州国の独立であり、南京攻略に繋がったと言えます。

馮玉祥、閻錫山は、「北伐」では蒋介石軍に参加し、北京政府を潰滅させました。張作霖の爆殺は卑怯極まりなく、蒋介石を支援したことに罪悪感さえ抱いたのではないでしょうか? 自ら反旗を翻し、戦争を起こすほど、蒋介石には軽蔑と憤怒があったと思います。

結局、「中原大戦」は張学良が停戦調停し、この二人を蒋介石政府へ参入させました。しかし、一度、完全に崩壊した信頼関係は戻るわけはありません。張学良と共に、蒋介石政府の潰滅と国外追放のため、内部分裂工作を図っていたのです。