張作霖爆殺事件の真相5-日本への張学良の特使派遣
1928年6月4日の張作霖列車爆殺事件の後、北京には蒋介石政府軍が続々と入城し、北京政府はここで、蒋介石の南部政府(南京政府)に完全に降伏する形となり、一旦、消滅してしまいます。しかしながら、張作霖の掌握していた政権基盤や軍事基盤は、長男の張学良に全て継承されました。
一般的な歴史理解では、張学良は、蒋介石側に付いた、又は、張学良が蒋介石側に寝返ったかのような印象があります。しかしながら、父親の張作霖が蒋介石に暗殺されたことは明白であり、「蒋介石政府の人間」となるには、相当な決断が必要であったのではないでしょうか? 「北伐完了」の後も、当然、張学良としては、北京政府や北支(北支那)の奪回は考えていたといえます。当時の「歴史写真」では、「北伐」完了の直ぐ後、張学良が特使を日本へ派遣した事を伝えています。
表向きは、張学良も、蒋介石の統一中国政府には賛成の立場と取らざるを得ませんので、「特使」として政府要人を派遣し、その記事と共に、日本での「北伐勝利慶祝大会」の記事を載せています。この記事を普通に読めば、日本も「北伐完了」には「祝賀」の立場のような印象になるのではないでしょうか? そんため、この記事は、「北伐」に対して、当時の日本の微妙な立場を示唆する内容であるといえるでしょう。中国の政府が統一された事については「慶祝」すべきですが、日本と協調関係にあった北京政府は実質的に蒋介石に完全降伏であり、大総統の地位を引き継いだ張学良は、即座に日本に「特使」を派遣し、日本の当時の首相始め日本政府要人に、支援を求める程の深刻な状況に陥ったことが伺えます。
昭和3年9月(1928年9月)発行「歴史写真」から
昭和3年7月(1928年7月)北伐完成慶祝と陶尚銘氏の来朝
記事: (右)東京市内に在住する支那人の団体なる東京中華連合会等の主催で七月下旬の一日神田神保町中華青年会館に於て北伐勝利慶祝大会が催された。此日午前十時から各代表者の講演やら祝賀演説行われ午後は龍燈や九連燈やの賑やかな提灯行列を作り神田の街を練り回った。
(左)奉天張学良氏の特使として我が政府に対し東三省の苦衷を訴え或種の諒解を求めんが為め日本に向かったと伝えられた元の北京政府外交部秘書官、陶尚銘氏は、当時の外交部日本課長、林文龍氏と共に二十五日の夜入京、田中首相を始め朝野各方面に渡る大官連を歴訪懇談するところがあった。
苦衷(くちゅう):苦しい心の中。諒解(りょうかい):事情をくみ取って承知すること。大官:身分の高い官吏や高官。東三省:満州地域(奉天省、吉林省、黒竜江省)
陶尚銘:1889年日本生まれ、1910年早稲田大学卒業後、中国帰国。1917年、張作霖の奉天督軍(将軍)時代にから奉天軍閥(政府)に参加し側近となる。日本語が堪能であり、張作霖と日本との外交での中心人物であった。
上記は、「北伐完了」後の7月下旬、張作霖の子息である張学良が、日本へ特使を派遣した際の記事です。当時、神保町にあった中華青年会館では「北伐完了」の祝賀大会が開かれました。張作霖爆殺事件は6月4日です。直後の「北京無血開城」により、蒋介石率いる南軍が続々と北京に入城し、約1か月後の7月3日には、総司令官であった蒋介石も夫人同伴で北京に入城しています。7月6日には、北京の碧雲寺にある孫文の墓前にて「北伐完成の報告慰霊祭」が執り行われています。また7月9日には戦没兵士の慰霊祭が盛大に行われています。この中、7月下旬、特使が日本へ派遣されたのです。
「北伐」による南北中国の統一は、南部の蒋介石政府が主導し政府体制が形成されて行きました。北部の北京政府は事実上終焉しますが、完全に解体したのではなく、蒋介石が成立した南京政府と統合する形となりました。列車爆殺された張作霖は、戦争で完全敗北して全ての政府実権を失うよりは、和睦して、北部政府の新しい統一政府への関与の余地を残したともいえます。張作霖が暗殺されなければ、南北政府で対等な立場での政府統一や政府統合に至ったかも知れません。しかし、6月4日の列車爆殺事件で、張作霖は死亡、直後から、その基盤は子息であった張学良に引き継がれましたが、政権の中心人物の突然の死により、北部の北京政府内には大きな混乱が生じていたでしょう。もし張作霖が健在であれば、日本への特使としては張学良が来日したかも知れません。
日本は、日清戦争、日露戦争での勝利で、満州鉄道の権益などを得たことで、ロシア、満州方面からの天然資源を日本はほぼ独占的に輸入する体制が生まれ、満州とロシアとは、長きに渡り、経済協力体制にありました。日本は、この戦争で、結果的に、満州地域とロシア極東部の経済発展には多大な貢献をすることになりました。日清、日露の2つの戦争は、満州とロシアから、日本へ天然資源を輸出するルートを確保する意味合いは非常に大きかったと考えます。戦争による「鉄道などの権益譲渡」であれば、イギリスなどの干渉を受ける必要はありません。清帝国、清王国(帝国終焉後)、更には、北京政府と、日本とは輸出入の経済関係で切っても切れない関係があったといえます。
当然、父親の張作霖、息子の張学良、共に、日本とは協力関係にありました。当時は、父親の死後の直後ですので、張学良は政権基盤を急遽引き継ぎ、北部の北京政府の混乱を収拾する必要性から、7月の来日は元北京政府外交部の要人2名に任されたようです。「歴史写真」によれば、張学良の特使が来日し、田中首相や日本政府高官と懇談しています。
その際、「歴史写真」の記事の通り、張学良の特使が、北部の東三省(満州地域:奉天省、吉林省、黒竜江省)に関しての苦しい状況を日本政府に訴えたのであれば、張作霖爆殺事件によって、張学良が日本と対立していたはずはありません。また、張学良は、この時、誰が自分の父親を暗殺したかも知っていたということになります。もちろん、日本軍では無い事も判っていました。
上記の事実や考察から、張作霖列車爆破事件は、日本軍に冤罪を着せるために戦後に作られた話であると結論します。
日本の敗戦後は、満州国は、戦争責任を回避する必要性から、日中戦争(日本-蒋介石戦争)、その後の太平洋戦争(日本ーアメリカ戦争)へは関与を否定、全ての責任が日本にあるとの結論にするには、満州国は「日本の傀儡国家」でなくてはならず、満州国は日本の「支配下」である必要がありました。また、蒋介石政府に下った張学良と、蒋介石と対立していた日本とは、「敵対的な関係であった」という話にする必要性があります。日本が満州国を「支配下」に置いたからこそ、張学良は蒋介石に支援を求めたという話です。そのため、蒋介石は「中国の為に」日本と戦ったと、戦争の「正当性」が主張出来ます。そして、その大元の理由として、「張作霖列車爆殺事件は日本軍の犯行」であり、日本は張学良にとって「父親のかたき」であったという話にする必要がありました。
その後の、日本と満州(張学良)が取った戦略は、表向きは、上記の様に解釈出来る戦略ではあったとはいえます。しかし、日本の敗戦後、もし満州国が日本と協力体制にあったと「真実を証言」すれば、満州国皇帝は確実に処刑、満州国は天然資源の豊富な地域だからこそ、アメリカに分割譲渡されることになったでしょう。Wikipediaによると、戦後の東京裁判で、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀が、「法廷において興奮することが多く」、証言の信憑性を疑われる要因となったとあります。満州国皇帝として、自らの民族を守るため、「偽証」せざるを得なかったとすれば、人として「狂う」ほどの苦悩を伴ったであろうことは想像に易いでしょう。
この時代の歴史を理解するのであれば、何よりも、当時が中国アジアの植民地化危機の時代であり、日本は清帝国(満州民族)と共に、植民地化危機を脱することを第一に、蒋介石、ひいては、その背後であったヨーロッパ諸国と戦っていたことを、常に前提にして解釈し理解すべきだと思います。