張学良西安事件3-中国共産党の滅亡危機

張学良西安事件3-中国共産党の滅亡危機

張学良の西安事件が起きた頃は、蒋介石政府軍が共産党軍を徹底的に攻撃し、撲滅寸前まで追い詰めていました。現在も、中国では、日本が共産党と戦っていたと「大きな誤解」が生じており、日中戦争時代の映画やドラマでは、常に日本軍が共産党に残虐行為を行ったシーンが製作され放送されていますが、これは「完全な誤解」です。残虐行為は、蒋介石軍によるものです。

蒋介石軍による残虐行為

中国共産党に徹底的な攻撃を繰返していたのは、蒋介石政府軍です。日本軍ではありません。南京大虐殺の証拠とされる写真の犠牲者についても、その多くが当時の共産党軍や共産党員の家族だったのではと考えます。旧北京政府統治下の満州系民族や漢民族は、張学良や張学良の配下の軍隊が守っており、張学良が南下し蒋介石政府へ合流した後は、表向きは日本軍、実質的には満州国軍が守っていました。海側の山東へは日本軍が進出しており、山西軍、北西軍などは、張学良の息の掛った人物達が守っていました。広東など南部方面は、日本とも親交の深かった汪兆銘がいました。最も守れなかった人々、最も犠牲になった人々は、蒋介石政府の直属軍が徹底的に攻撃していた「中国共産党軍」とその関係者であったのでは無いでしょうか。

中国共産党は、第3勢力であり、北京政府や蒋介石政府の規模から比べれば、軍事兵力も決して大きくは無かったようです。蒋介石による「長期的な攻撃」の結果、Wikipediaによると21万人程度はあった軍隊が、この頃には7万人規模まで縮小していたようです。蒋介石政府軍(直属軍)は、占領した都市や地域では「略奪、凌辱、虐殺行為」を繰返していました。共産党との戦争は、「北伐」後に直ぐに開始されており、多くの共産党員が、蒋介石によって「惨殺」されていたであろう事は、日本への残虐行為の数々を考えれば、想像に易いでしょう。

西安での軍事会議の阻止

西安事件では、この7万人の共産党軍を完全に壊滅するための「軍事会議」のため、蒋介石は張学良と一緒に西安に出向きました。張学良は、この頃、中国共産党の征伐の命を受けて西安で総司令になっていました。張学良の「戦略」を考えれば、数年前から、蒋介石政府と中国共産党との「停戦」を目論んでいたといえます。昭和11年(1936年)12月の西安事件を起こす約半年前、昭和11年(1936年)4月には、張学良と周恩来の会談が開かれています。張学良としては、当然、「停戦協定」の締結に向けて「提案」を行ったといえます。その後も、共産党員であった実弟を通じて、「水面下の交渉」は続いていたのでは無いでしょうか?

一方、イギリスの傀儡政府である蒋介石政府は、中国共産党を何としても壊滅する必要があり、その後も共産党への攻撃を止めることは無く、最終的な「壊滅攻撃」を阻止するには、張学良が事件を起こし、阻止するより他に方法が無かったといえます。

この状況で、張学良が、蒋介石政府軍により壊滅状態に陥っていた中国共産党を救えば、中国共産党は確実に張学良に従う立場を取るでしょう。この西安事件の約半年後が、「北支事変」であり「第二次上海事変」です。この2つの事変は、中国全土、特に中央部、南部地域が、蒋介石政府統治下から分離独立を目指した「軍事クーデター」でした。これを成功させるためには、第3者勢力であった中国共産党の動きを、張学良が制御する必要があったと言えます。

綏遠事件の後、「北支事変」と同時期に起きた、内蒙古中央部(張家口付近)での「軍事衝突」に於ては、蒋介石政府軍は共産党軍と共に、日本軍と内蒙古軍と戦っていますが、この時の蒋介石軍は、実質、張学良の配下の「山西軍」であり、張学良が西安事変で救った共産党軍です。一旦、日本軍に占領させる「戦略」に従わせるためには、張学良の西安事件は「信頼関係」を構築するには絶好の機会だったといえるでしょう。


西安事件後の国共合作

西安事件の後に、あれだけ対立していた蒋介石政府と中国共産党が「国共合作」といわれる「協調体制」に至りました。これは「対日即時宣戦」を「共通利害」とし成立したといえます。蒋介石が本当に狙っていたのは、日本ではなく、満州地域の奪回した。しかし、表向きは「日本軍が占領した地域」です。満州地域、更には自治政府が成立した中国北部を完全奪回するには、蒋介石は日本軍と戦争をし勝利しなくてはなりません。「対日即時宣戦」は、蒋介石政府と中国共産党を結び付けるには格好の口実であったといえます。

日本は、在留邦人への残虐行為を繰返す蒋介石とは長期に対立しており、当然、イギリスとも対立していました。一方、日本は、満州鉄道を通じて、ソビエト(ロシア)のシベリア方面からも天然資源を輸入しており、日本とソビエト(ロシア)は、表向きは「対立の様相」を見せつつも、当然、水面下では「同盟国」でした。反イギリスという点で、「共通利害の一致」があったからです。この延長線上で、日本と中国共産党との間にも、反イギリス(=反蒋介石)という「共通利害の一致」がありました。

中国では、蒋介石政府と満州帝国との「南北戦争」が依然として進行しつつある中、第3者勢力として中国共産党も存在しており、さながら、近代の「三国志」のような状況が生れていました。中国共産党からすれば、蒋介石政府に付けば、最終的には、植民地化は免れない事は承知していたでしょう。そのため、まずは蒋介石政府を倒し、その後で、日本軍(=満州帝国軍+民主主義系漢民族軍)との戦いを経て、中国全土を共産主義化する事を目指していたと言えます。

日本が蒋介石政府を倒すことは、中国共産党にとっては「好ましい事態」であったと言えます。そのため、中国共産党は、日本軍の軍事侵攻を基本的には邪魔しない姿勢を取っていました。表向きは蒋介石政府に協調する形を取ってです。

消滅寸前にまで追い詰められた中国共産党に、張学良が、蒋介石に「容共政策の実施」の条件を飲ませ、中国共産党に対しても「蒋介石政府との和睦」を受入れさせるためには、「共通利害」=「大義」が必要です。国内での対立解消に外国を悪者にするのは良くある政治手法です。当時の状況であれば、「日本を悪者」にするのが最も簡単であり「理に叶っていた」と言えるでしょう。

そうして、張学良は、中国共産党に「大きな恩」を売る形で、「国共合作」といわれる「協調体制」に至り、「最終決起」の事前段取りに成功したといえます。中国共産党の「計画」、要は、日本に蒋介石を排除させるというシナリオにも非常に添った展開だったと言えます。

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