張学良西安事件2-蒋介石政府と共産党の敵対関係

張学良西安事件2-蒋介石政府と共産党の敵対関係

西安事件では、張学良は、蒋介石政府(国民政府)に対して、釈放条件として幾つかの「要求」を行ったようです。「歴史写真」の記事では、最も大きな要件として、「容共政策の実施」と「対日即時宣戦」の2つが掲載されています。「対日即時宣戦」は状況的に直ぐに現実化出来るものではありません。「容共政策の実施」は、蒋介石側だけでなく、中国共産党側の同意があって初めて成立する内容です。双方に「共通利害の一致」があれば、「容共政策の実施」=「中国共産党との停戦」に持ち込めるでしょう。「共通利害」として「日本を悪者」にするのが最も簡単であり「理に叶っていた」と言えるでしょう。「対日即時宣戦」を釈放条件にすることに大きな意味があったと言えます。

中国でのイギリスとソビエト(ロシア)の対立

歴史では、「国共合作」という言葉で、まるで蒋介石政府(国民政府)と中国共産党が、「協調体制を取った」かの印象があります。しかし、実際の歴史背景を考えれば、蒋介石政府(国民政府)はイギリスの傀儡政府であり、一方、中国共産党は、ソビエト(ロシア)が後ろ盾となっていました。

当時、イギリスがは、バルカン半島(ウクライナのある半島)方面で、ロシアと敵対関係にありました。1914年からの第一次世界大戦が、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの独立を巡り、首都サラエボで起きた事件に端を発したように、当時はバルカン半島西部では民族独立クーデターが相次ぎ、多くの地域が国家として分離独立しました。バルカン半島東部でも、1922年にオスマントルコが滅亡し、トルコ共和国が独立しています。その後は、現在のウクライナ問題と同様、南下政策を取るロシアと、それに対抗する諸国との間で「対立構造」がありました。

バルカン半島での、イギリスとソビエト(ロシア)の間での対立があったことは世界史としては印象が弱いかも知れません。ソビエト(ロシア)は、オスマントルコ帝国の末期、バルカン半島でオスマントルコから小民族国家の独立を支援しました。一方、イギリスは、オスマントルコ帝国よりエジプトを分離独立させています。第一次世界大戦では、イギリスもロシアも、味方同士として、オスマントルコ帝国と戦っています。

しかし、当時のイギリスやフランス、そして、ロシアからすれば、オスマントルコ帝国に軍事侵攻し、エジプトなどアフリカ大陸北部の分離独立、バルカン半島での小民族国家の独立を支援した理由は、オスマントルコ帝国が分裂し弱体化すれば、その領土を新たな植民地として拡大し、又は自国領土の拡大が図れるからです。各地域で少数民族が独立し、小国家化すれば、当然、国力も軍事力も弱小化することになります。オスマントルコから分離独立後、そうした小国家の国々へ軍事侵攻すれば、簡単に軍事占領出来るでしょう。要は、イギリスやフランスからすれば、最終的には自分達の植民地にし、ソビエト(ロシア)は、自国の領土を拡大する目的で支援していたということです。

イギリスはオスマントルコ領であったエジプトを植民地化しており、フランスはアルジェリアを植民地化していました。1922年にオスマントルコが完全崩壊した後は、イギリスやフランスは、エジプト方面から領土拡大を図り北上し、一方、ロシアの南西部から領土の拡大を図るソビエト(ロシア)が南下しました。結果、双方が、バルカン半島を巡って軍事対立が続く状況が起きていました。中国でも、この対立は波及しており、イギリスの傀儡政府であった蒋介石政府と、ソビエト(ロシア)が支援していた中国共産党とは、長期の軍事対立が続いていました。

この中国共産党と蒋介石政府が長期に敵対関係にあった歴史は、現在の中華人民共和国では認識が無いようで、蒋介石政府を日本と完全に間違えて理解しています。

このサイトを通じて、日本への深刻な誤解が解けることを祈ります。

西安だった理由

西安という都市は、シルクロードの中国側の起点であった都市です。唐の都であった事でも有名です。以下の地図の黄色い線がシルクロードですが、このルートは既に共産主義化していた外モンゴル地域と国境を接しています。このルートに沿って、甘粛省を中心に、中国の共産主義化が進んでいました。西安はシルクロードの東端、中国側の要所であり、北西方面からの共産軍の進軍から、蒋介石は西安を死守すべく軍事展開していました。

蒋介石政府は中国共産党との長期の軍事対立、加えて、蒋介石政府軍の圧倒的な軍事力差から、中国共産党は滅亡寸前に追い詰められており、西安で予定されていた中国要人会議の内容は、当然、中国共産党への「最終攻撃」についての「軍事戦略会議」であったといえます。蒋介石が自ら指揮を取る為に西安に向ったのです。

そのため、張学良が、この会議の直前のタイミングで「西安事件=軍事クーデター」に及んだのは、この「軍事戦略会議」を潰す目的であったといえます。その後の、容共政策から国共合作への流れを見れば、この「共産党撲滅への最終軍事戦略会議」を潰し、「中国共産党との停戦」に持ち込むのが最大の目的であったでしょう。

蒋介石が無事に西安に到着し、この「軍事戦略会議」が行われていれば、この段階で、中国共産党は壊滅的なダメージを受け、中国での基盤を完全に失ったといえます。そうなれば、ソビエト(ロシア)の勢力が後退することになります。ソビエト(ロシア)が後退すれば、当然、イギリスが蒋介石を使って北上して行きます。これを阻止するため、ソビエト(ロシア)が中国へ軍事侵攻すれば、中国で再び大きな内乱戦争が勃発します。イギリスとソビエト(ロシア)が戦争になれば、イギリス側にはフランスとアメリカの参戦が見込まれます。

張学良は、自ら「裏切り者」となり、蒋介石政府の内部分裂工作を繰返し、北部では「自治政府」が発足、内蒙古西域も独立目前でした。近い将来、再度、「満州事変」と同様の事変を起こし、それを契機に中国全体を分離独立させる計画であったとすれば、このタイミングで、外国勢による中国本土での戦争は絶対的に回避しなくてはなりません

張学良は、西安事変により、蒋介石政府と中国共産党の間で「停戦」に成功しました。結果的に、蒋介石=イギリスの北上を実質阻止することに成功したとも理解出来ます。「停戦」に持ち込む事で、この領域に「中国共産党」勢力を温存させたのです。結果、ソビエト(ロシア)は、軍隊を南下する理由を失い蒋介石(=イギリス)は、西安から内蒙古やウイグルへの北上ルートは使えなくなりました。

翌年の内蒙古西域の分離独立を目論む徳王にとっては、有利な状況が生まれたといえます。更には、日中戦争後に樹立した、「新支那中央政府」の構想通り、ウイグル地区、チベット(西蔵)地区、青海などへの軍事進攻ルートを実質的に断つことに成功したといえます。

張学良が、自分の政治生命を捨てても十分な意味のある「軍事決起」であったといえるでしょう。

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