第二次上海事変の真相9ー上海の陥落

第二次上海事変の真相9ー上海の陥落

第二次上海事変は、8月23日には、日本軍のは、上海近郊へ陸軍部隊を、第一陣として、中国本土へ上陸させました。その後、約3カ月を掛け激戦を繰返し、11月14日頃までに、日本軍が上海全域をほぼ掌握しました。上海戦線は、引き続き、蒋介石政府軍の敗残兵の掃蕩を行い、上海周辺から蒋介石政府軍の一掃に成功しました。

これを受け、上海上陸より100日目の12月3日に、上海にて日本軍一万名の「大行進」パレートが行われました第二次上海事変は、この上海の行軍パレードをもって収束と見做して良いでしょう。

 

当時の蒋介石政府の暴政や、一般民衆への襲撃略奪、政府の財政破綻状態であった事実などには、現在の歴史でも、依然として、全く目が向けられていません。日本が敗戦に追い込まれた後、アメリカ軍を引き連れて中国へ乗り込んだ蒋介石が、中国での再度の台頭を狙い、自分の過去の罪状を全て、日本に濡れ衣を着せる形で「隠ぺい」しました。戦後の歴史は、蒋介石に有利なシナリオで、史実が捻じ曲げられて構築されました。40万以上の蒋介石政府軍に、日本は約3万程度の兵力で挑み、それでも「日本軍が圧勝した」のが本当の歴史です。敗残兵は、蒋介石政府軍の兵士達だったのです。

第二次上海事変での蒋介石政府軍による「一方的な無差別攻撃」は目に余るものがあり、また、停戦調停に応じるどころ、上海へ大軍を集結させ、戦闘姿勢を崩さなかったことから、日本軍が応戦に転じ、大きな軍事紛争に発展したのです。同時に、これを機に、日本は、蒋介石政府の残滅すべく「上海での戦争」に踏み切りました。日本軍の圧勝したのは、日本軍が強かったからではなく、蒋介石政府が既に「内部破綻」していたことが最大の要因でした。

 

昭和13年2月(1938年2月)発行「歴史写真」から
昭和12年12月(1937年12月)-皇軍戦勝の意気正に天を衝き堂々大上海を行進す

記事:

我が陸軍の大部隊、上海に上陸して以来、地の利を恃む頑敵と相對して力戰 奮闘實に百日、遂に克く彼の精鋭数十萬を殘滅して、大上海を占據し、無敵皇軍の威容を遺憾なく世界に宣揚したのであるが、上海を中心に江南の戰局一段落を告ぐるや、十二月三日を以て、 將兵一萬の大示威行進を同市内に て舉行し、空前の豪華 パレードを展開した。此日、我が陸戰部隊は、敵が第一の要害として死守したる大場鎮占據の殊勲者福井、飯塚、山田の各部隊を先頭に、初冬の陽光燦としてふりそそぐところ、佛租界、共同祖界を軍靴 の響きも勇ましく堂々として行進、英國領事館前を通過し、ガーデン・ブリッヂを渡り、次で虹口の日本街に入り、邦人等が狂亂舞の裡に一絲みだれず解散した。寫眞は今しも我が部隊堂々南京路を行進中の光景である。

上記の南京路は、8月14日、照会性政府軍の無差別空爆により、多数の民間人が犠牲となった場所です。

 

第二次上海事変が勃発した頃には、中国の植民地化を主導していたイギリスもフランスも、中国への進出を深追いするより、既に植民地化が進んでいたインドの北側にあるチベット(西蔵)方面へ「方針転換」して行ったことから、蒋介石についても「見切っていた」といえます。蒋介石は、イギリスの代わりに、アメリカに目を付け、アメリカを支援国として取り込む方向へ転換して行きました。

以下は、11月14日に、日本軍が上海全域をほぼ掌握した後に、イギリスとフランスの日本に対する「態度の変化」を示す写真と言えます。当時のイギリス、フランス、アメリカなど欧米諸国は、満州国を始め、日本に味方する国々を、押しなべて「日本の傀儡政府、傀儡国家」と非難していましたが、蒋介石政府とは正にイギリス、フランス、アメリカの完全傀儡政府でした。この3国が支援しなければ、成立も継続も不可能な程、蒋介石政府は政府として財政破綻状態であり、統治統制力もありませんでした。中国共産党との長期の軍事紛争もその一つですが、「戦争を継続する」ことで政府内の人員を無理やり繋いでいたといえます。

第二次上海事変では、それが遂に破綻し、それ以降は、蒋介石の逃亡が始まったのでした。歴史に有名なカイロ会談で、蒋介石がエジプトのカイロにいたのも、中国を完全追放され、イギリスの植民地であるエジプトにでも亡命していたからでしょう。

 

昭和13年1月(1938年1月)発行「歴史写真」から
昭和12年11月(1937年11月)- 大上海の攻略成る(上海方面の七)

記事:

我が陸海空の三軍、力を戮せての猛攻撃にさしもの頑敵総崩れとなり、大上海は遂に日章旗下の都市となつた。

写真:

寫真の(右上)上海逐に陥落するや、英國極東艦隊司令長官リットル提督が、我が最高指揮官松井大將をその司令部に訪問したる有樣で、前列左よりリツトル中將、松井大將、及び英國駐屯軍司令官モーレツト少難である。
(左上) 今や火の海と化しつつある南市浦東方面を望む。
(右下) 南市の一角に於て萬歳を叫びつつある石井部隊。
(左下) 日本軍の進擊に驚き、租界に避難せんとして黄浦江を渡り 擬々バンドに押寄せた浦東の住民達である

注)戮せる:合わせる

 

写真拡大ー英國極東艦隊司令長官リットル提督と日本軍最高指揮官松井大將

日本軍の上海陥落の直後に、蒋介石の最大支援国であったイギリスの艦隊司令官が、日本軍の最高指揮官を訪問しています。ここで何が協議されたかは不明ですが、この頃には、イギリスも、蒋介石に対しては見切りを付けていたかも知れません。十数倍の兵力がありながら、蒋介石政府軍が敗退したことを受け、イギリスも、蒋介石では中国を纏められないということは気付いたのでは無いでしょうか?

また、何より、上海での軍事紛争には、イギリスは一切関与していないことを示す目的だったかも知れません。

蒋介石を見切って、日本との関係改善を図った方が、イギリスにとっては中国での商業貿易上もメリットがあったでしょう。

 

写真拡大ー上海南市にて萬歳を叫ぶ日本軍

上記の写真からも、第二次上海事変で、日本軍が圧勝だったことが解ります。第二次上海事変も、その後の南京攻略も、日本軍が大敗していたと誤解したまま、信じ切って、歴史サイトやWikipediaに記事を書いている方々が殆どですが、本当の歴史は、日本が圧勝していたのです。

こうした間違った情報が、このサイトの「本当の史実」の情報発信により、一日も早く訂正されることを願います。

 

昭和13年1月(1938年1月)発行「歴史写真」から
昭和12年11月(1937年11月)-避難民の救済と慰霊祭(上海方面の六)

写真:

(右上) 十一月上旬、南市に蟠踞する残敵掃蕩の際、死地に臨んだ同地三十萬の支 那良民を救るべく自ら弾雨下に立ち、縦横に活躍して克くその目的を達したる佛人ジヤキノー教父 (中央の人)と救済委員會の委員連。
(左上) 十一月十四日虹江碼頭に於て営まれた日支兩軍戰歿士の慰霊祭
(右下) 我軍の手に依て建てられ た中華民國無名戰士の墓。
(左下 )國際普惑療養院に敵傷病兵を見舞子山澤部隊長。

上記、11月14日に、または、11月14日頃に、第二次上海事変が実質的に収束したとする根拠です。日本軍と蒋介石政府軍の双方を悼む慰霊祭が行われたという事は、日本軍としても「収束した」という認識に至ったからといえます。

厳密には、12月3日のパレードが正式な収束日かも知れません。

 

写真拡大ー佛人ジヤキノー教父 (中央の人)と救済委員會の委員連

第二次上海事変は、軍事紛争が3か月に及びました。日本とイギリス、日本とフランスは、日本と蒋介石が戦っていたことから、当然、敵対関係にありましたが、この3か月の間に、イギリスとフランスの両国も蒋介石による統治の限界には気が付いていたかも知れません。少なくとも、民間人レベルでは、蒋介石に対して反発する人々も多かったといえます。そうした状況が無ければ、あれだけ少数の日本軍が、蒋介石政府軍に勝利するなど有得ないからです。

上記の写真のフランス人牧師のほっとした表情、日本人兵士と「笑顔で握手をするほど」の状況があったという事です。日本軍が、蒋介石政府軍を上海から排斥したことは、フランス人の居留民にとっても望むべく事態であったと考えます。

現在もそうですが、イギリス人もフランス人も「キリスト教の精神」に基づき、慈愛と慈悲の心を大切にする人々です。蒋介石の残虐な人間性や卑劣な手口には、内心、軽蔑に近い思いを抱いていた方々も少なく無かったと思います。アメリカも同様で、人を信じる「善良な心」がある人々だからこそ、騙されたと言えるでしょう。

 

写真拡大ー中華民國無名戰士の墓

上記の墓は、日本軍が作ったものです。日本では、戦った相手の墓標を立て、慰霊を行う習慣があります。また、中華民国=蒋介石政府の政府軍で戦い、命を落とした多くは、反蒋介石派の兵士だったともいえます。戦争では、前線で戦う兵士の一人一人は、司令部の命令に従って戦うしかありません。蒋介石から、祖国(中国全土)を奪回するという目的を理解していたかは不明です。司令官の命令で、「武器を置いて逃走」したとしても、相当な都市破壊に及ぶ激戦でした。蒋介石軍も、多くが命を落とした事でしょう。彼らは実質、「味方」だったといえます。その後も、日本軍が、進軍した都市で、毎度の様に、中国人の慰霊碑を立てていたのは、これが理由でしょう。

満州事変も北支事変も、2度の上海事変も、日本軍が、「外国」として、旧北京政府勢力の代わりに、蒋介石政府(中華民国)と戦いました。これは、「外国による占領」であれば、「北伐」や「中原大戦」のような、中国国内での、中国人同士の大規模内乱は回避出来るからです。仮に蒋介石が、分離独立した地域を奪回しようとするなら、日本と戦う必要があります。また、戦争で「外国」に負ければ、戦争の賠償として、領土分割という話になります

当時の4つの軍事衝突=戦争では、常に、蒋介石政府から、一方的な攻撃を受けた上での軍事紛争です。結果、日本が勝利したのであれば、日本が領土を占領したとしても文句は言えません。中華民国としての国際的な立場としても、自分達から撃した戦争です。日本に領土を占領されたことを訴えることも出来ません。また、蒋介石がそうした動きに出ないよう、当初から、蒋介石政府の壊滅を目指したといえます。

戦場の兵士は、そこまでの「戦略」は知らされなかったでしょう。そのため、真剣に戦いに挑み、命を落とす兵士は、蒋介石政府軍側にも、日本軍側にも、多数に及んだといえます。

 

写真拡大 ー 11月14日、日支兩軍戰歿士の慰霊祭

一方、表向き「日本軍(外国軍)を利用する」ことにより、中国での南北内乱を回避しつつ、蒋介石政府からの全土の分離独立を果たすという「巧妙な戦略」を取っていたことから、蒋介石政府軍の「反蒋介石派」の兵士達を、一旦「戦死扱い」にして、蒋介石政府軍へ戻る理由を無くしてから「解放していた」ともいえます。また、逃走した兵士は、一旦、日本軍の捕虜とし、その後に、新政府軍の兵士として吸収するか、一般市民として開放するか、出来る限り「殺さない戦略」が取られたと考えます。

日本軍は非常に小規模であり、戦闘を長期化するのも、収束するのも、蒋介石政府側の動きで幾らでも調整出来ます。蒋介石政府の崩壊を目指して、最終局面での独立軍事クーデーターを画策していた張学良からすれば、日本という「外国」は、戦況を制御し易い相手だったと言えるでしょう。だからこそ、本来であれば絶対に勝ち目のない少数の日本軍との「戦争」にしたのです。もちろん、当時のアジアで、日本以外に、この役目を担える国は無かったともいえるでしょう。

日本軍は、進軍する先々で、「大量の遺棄死骸を発見したので、慰霊碑を立てていた」ようですが、蒋介石を騙すには「慰霊碑」や「慰霊塔」はかなりな効果はあったでしょう。一部、正規軍との激戦はあったといえますが、殆どの兵士は、戦う前に、武器を放置したまま「敵前逃亡」していました。こうした逃亡兵や敗残兵を捕えて、処罰を一切せずに「解放」するは、「戦死扱い」にするのが最も簡単です。戦死した兵士は「名前が解りません」ので、誰が死んだのか証拠は残りません。「無名戦士」の墓を建て、大量の犠牲者が出たことにすれば、軍法会議や処罰も必要ありません。犠牲者を出さずに、蒋介石政府軍の兵力を激減させることが出来ます。

「歴史写真」では、度々、日本軍がこうした戦死した兵士や遺棄された一般市民と思われる遺体を埋葬し、慰霊碑を立てた写真記事が掲載されています。撤退、逃亡する蒋介石が通過した都市では、多数の遺棄死骸が放置されたとあり、ほぼ全ての都市(城)で、日本軍が慰霊碑を立てていたようです。蒋介石政府の正規軍は、日本への大使館襲撃などで明らかな様に、極めて残虐な軍隊でした。各都市では、一般市民も含め多くの犠牲者は出たでしょう。ですが、生き残った人々も含め、大量に死んだことにすれば、蒋介石に裏切り者扱いされる=報復を受ける恐れもなく、「解放」が可能だったと言えます。