第二次上海事変の真相7ー上海戦線:上海周辺の攻略

第二次上海事変の真相7ー上海戦線:上海周辺の攻略

第二次上海事変は、一般に8月13日に起きた蒋介石政府軍による日本人租界への不法発砲事件を発端としています。8月23日には、日本軍が、上海近郊へ陸軍部隊を中国本土へ上陸させる事態に発展し、その後、11月14日に、日本軍が上海全域を掌握する形で収束しました。

事変(=軍事紛争)の発端は、日本租界への発砲した事件となっていますが、軍事紛争に発展した理由は、8月14日に起きた、蒋介石政府軍の空軍による「日本海軍の艦隊への空襲」だといえるでしょう。また、発端は、8月9日の大山大尉の惨殺だと思います。上海での日本人襲撃は、8月8日の日本軍による「北京入城」に対する「報復行為」といえるからです。第二次上海事変での蒋介石政府軍によるに「一方的な攻撃」は目に余るものがありました。また、停戦調停に応じるどころ、上海へ大軍を集結させ、戦闘姿勢を崩さなかったことから、日本軍が応戦に転じたのです。一方、別の見方をすれば、蒋介石政府軍は、日本軍が応戦に出るに十分な「理由」を与え続けたともいえます。

第二次上海事変は、南部(南支那)での「蒋介石政府からの軍事独立クーデター」だったのが歴史の真相です。日本軍が応戦に出る形で「軍事衝突」が勃発し、日本は、当初から、蒋介石政府の残滅すべく「蒋介石政府との戦争」に踏み切りました。日本が圧勝した理由は、当然、蒋介石政府内で「裏切り者(張学良)」が政府内部崩壊(反蒋介石勢力の形成)を成功させていたからです。蒋介石の命令には従いつつ、戦場では、武器を置いて逃走を繰返し、日本軍に占領させる戦略でした。

日本軍は、8月23日に第一陣の上海上陸後、9月は上海市街地を中心に「軍事衝突」を繰返し、市街地を攻略。10月からは上海近郊、広州で、蒋介石政府軍の軍事拠点の掃蕩を行いました。日本軍は極めて少数であったため、正面衝突では勝ち目はありません。軍事基地や軍事拠点へ集中攻撃を掛け、敵の戦力を潰す作戦を展開していたようです。

 

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)- 月浦鎮への進撃

記事:

月浦鎮は揚子江の下流、獅子林砲臺に近く、右方羅店鎮へ二里牛、 左方楊行鎮へ三里、敵の第一線陣地の最重要地點とし て四個所にトーチカを築き、前線一帶には堅固なる防禦陣地を構へ、難攻不落 を誇ってみたのであるが、 既に獅子林砲臺を占撮した る我が〇〇部際は、九月七日以來、此の要害に向つて勇猛果敢なる総攻撃を開始し、激戰三日同月十日午 後二時逐に同地點を占據、 城頭高く日章旗を鎌した。 寫真は、クリークに沿ひつつ月浦鎮に前進する我が〇〇部隊である。

注)防禦:防御

光鎮は、上海市街地の北側で揚子江沿いにある場所です。9月は市街地戰に並行して、周辺部にある蒋介石政府軍の軍事拠点の攻撃と占拠を行ったようです。

 

昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)- 一日一城を屠る我が躍進振(上海方面)

写真:

(右上) 蒋介石の大理想、新上海の建設を目指してまれた壮麗豪華を極むる市政府も、我が猛撃に堪へかねて遂に占城せられた。寫真は市政府を 占撮して萬歳を唱ふる我軍。
(左上)一戦克く寶山縣城を攻略し、今し工兵の作った突撃路を躍進する我が步兵隊。
(右下)上海〇〇の肉弾戰に、敵の大隊旗を分捕った我が永津部隊の勇士達。
(左下)月浦鎮占城の〇〇部隊

注)縣城(県城:けんじょう):古代中国に置かれていた県の役所(県治)防衛のために築かれた城

上記は、上海の北側、宝山の攻略の記事です。

 

昭和12年12月(1937年12月)発行「歴史写真」から
昭和12年10月(1937年10月)- 上海戦線-決死白襷(白たすき)隊の上海北站突入(其他)

 

記事&写真:

(右上)十月二十三日、護國の英霊長へに眠る東京九段 靖國神社の祭典を期し、上海の全戰線は一齊に總攻撃を開始した。寫眞ば我が〇〇部隊が、決死の白襷隊を組織し、敵の閘北作戰本據たりし北停車場に突入しつつある有樣。
(左上)上海北站に隣して、敵が最も 死守 したる鐵路管理局が、全く我軍の占據するところとなりたる有様で、コンクリートの壁に命中せる我が砲弾の威力は、思い牛ばに過ぐるものが まるであらう。
(右下)第一次上海事變に『爆彈三勇士』を出したる廟行鎮の堅は、十月二十六日、我が織田部隊に依て遂に占據せられた。寫眞 は支那側無名戰死者記念堂前に於ける我が部隊の萬蔵。
(左下)上海抗日の本據となりたる復旦大學は、十月二十四日谷川部隊に依つて占據せら れた。寫眞け挺身同大學に肉薄する我が將士である。

注)白襷隊:白たすき隊

 

昭和12年12月(1937年12月)発行「歴史写真」から
昭和12年10月(1937年10月)- 上海戦線-苦闘百日陸戦隊本部屋上の萬歳

記事&写真:

(右上)八月十三日、上海に於ける日支兩軍の衝突以來、我が陸戰隊本部け、終始敵軍の標的となり、度々空陸よりの猛撃に逢いたるが、勇敢無雙の我が將士ば、泰然自若として克く是を守り、遂に全敵總退却の戰果を招來したのである。寫眞は閘北の敵軍撃攘後、本部望樓上にはためく 勝利の海軍旗である。
(左上)閘北戰線の某地に於て奮戰中の我陸戰隊で、敵の據りたる一ビルデイングを占據し、その正面階段の塔壁に銃限た 穿ち、残敵を猛射しつつある有様。
(右下)眞茹大場鎮の堅望を屠りたる我軍の戰車隊が、民家に突入して殘敵を掃蕩しつある光景。
(左下)遺次の戰ひに於て、軍用犬、軍用鳩等はいづれも涙ぐましきばかりの働きをなしつある、寫眞は上海全線總攻擊に際し、第一線に運び出されん とする軍用鳩である。

上記では、上海の閘北から蒋介石政府軍を総撤退させたとあります。

 

昭和13年1月(1938年1月)発行「歴史写真」から
昭和12年11月(1937年11月)- 南翔の陥落(上海方面の九)

記事:

南翔は、上海の西に位し、這次事変に際しては、夙に支那軍々司令部の設置せられれる ところ、敵が第二の大場鎮として、その堅固なる堡壘は旅願以上と誇ってみた要地であ る。而る我が軍は空陸呼越し て、是に猛撃を加へ、十一月十二日の掃曉、逐に全く占據した。

写真:

寫真の(右上)我が空爆に潰滅したる南翔驛の跨橋上に萬歳を叫ぶ先遣部隊。
(左上) 南翔目指して猛進撃の戦車隊。
(右下)蘇州河以南の敵陣地に猛射を浴びせる我が〇砲陣地。
(左下)クリークに架した急造の輕渡橋を渡り敢然 猛進する我が歩兵部隊である

 

注)堡壘(ほうるい、ほるい):敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地。小型の要塞

上記は、上海の市街地からは西方面である南翔の攻略の記事です。蘇州河(呉淞江(ごしょうこう)は、上海市内を流れる河川で、日本軍は、上海市街の北部の揚子江沿岸から上陸し、北部地域を先に攻略し、西部、更に、蘇州川の南部へ進軍したようです。また、南部は、上海南部の海外である杭州湾から上陸して、北上したようです。

 

昭和13年1月(1938年1月)発行「歴史写真」から
昭和12年11月(1937年11月)- 新鋭部隊の揚子江岸上陸(上海方面の十一)

記事:

我が陸軍の大部隊が、敵の虚を衝き、十一月五日の拂曉、突如として杭州湾の北岸に上陸、憩ふ間もなく獅子奮迅の勢ひを以て北上、上海の南方一帶の要地を績々占據し、多大の戰果を収むるや 同月十三日には、更に他の一新鋭部隊が、海軍と協力して揚子江 の上流、白茆口附近に上陸、直ちに西南方に向て進撃を開始し、 一方南翔、嘉定を陥れて敵を急追する〇〇部隊と共に、太倉、崑山を攻略、更に常熟、蘇州の線に進出し、随所に頑敵を蹴散らしつつ、 南京前衛の敵の第一線突破の體勢を固めた。

写真:

寫眞の(右上) 太倉一番乗りの永津部隊
(左上) 白茆口附近に 上陸したる我が新鋭、〇〇に向て前進を開始す
(右下) 揚子江岸上陸の永津、高橋部隊
(左下) 嘉定城頭高 く日章旗を掲げて萬歳を叫ぶ我部隊

南翔、嘉定、太倉、崑山は、上海の西部近郊の要地でした。

 

写真拡大 - 揚子江岸上陸の日本軍

11月5日に、日本軍は、杭州湾の北岸に上陸し、北上、上海の南方一帯の要地を続々と占拠しました。前月より、上海の北側の揚子江岸から上陸し、南部、西部へ進軍した部隊と共に、西、北、南、三方から上海市街地へ進軍しながら、上海周辺部も含め、日本軍の占領下に置いたようです。

 

昭和12年12月(1937年12月)発行「歴史写真」から
昭和12年10月(1937年10月)- 上海戦線-陣中小閑

記事:

(右上)小春日の草原である。頑敵を繊滅して一と息ぬいたところ、だがまだ滿身の精力は、聊かの衰へたも見せず、一同張り 切った腕つ節を 撫でながら、過ぎし戦いの功名ばなしに時の移るのを忘れてゐる。此の時、一人の軍曹殿やをら立ち上つて得意のをどりかわり 出した。世々興かり、腹を抱へて洪笑又爆笑。
(左上)是ち陣中の小閑、街で拾った人力車に戰友た乘せてよろこぶ兵士の笑顔。
(右下)『白地に赤く日の丸染め て……』と兵隊さんのオルガンに合せて、舌たるい唱歌のお稽古、此處〇〇に近き日の丸部落、我が兵土達と支那の子供等、親子の如く兄弟の如く、涙ぐましいまでに朗らかな親善風景である。
(左下)江南の戰場にもいっとはなく冬が訪れた。戰いのひまに焚火して、遠い故さとの 妻子の上を語り合ふ髭の勇士達である。

 

写真拡大 -日本兵軍曹の余興

日中戦争は、これまで、日本軍が大敗したかのような歴史認識だったと思いますが、実際には、このサイトで述べるように、日本軍は圧勝していました。 日本軍は3万人程度の小軍隊であり、蒋介石軍は40万人規模の大軍でした。通常であれば、日本が大敗して当然です。軍事力としては、10数倍の格差がありました。

しかしながら、真相は、日本が圧勝していたのです。上記の写真は、激戦となった第二次上海事変においても、日本軍は、こうした余興で笑い合うほど、余裕のある戦いをしていた証拠です。

これは、もちろん、張学良が、北支事変と第二次上海事変を起こす前に、蒋介石政府内の内部分裂工作、蒋介石政府軍内に、反蒋介石派を形成していく、決起半年前には、自ら西安事件を起こし、中国共産党が日本軍へ攻撃しないよう水面下工作を行うなど、8年の年月を費やして、蒋介石政府の内部崩壊を画策して来た成果です。

日本軍が圧勝していたからといって、日本軍が強かったわけでは決してありません

また、満州事変は9月に決起し、その後に続く満州地域全土から蒋介石政府軍の排斥には「冬季」でした。第一次上海事変は、満州国の建国の1か月前くらいに決起し、建国とほぼ同時に軍事衝突を停止し、その後は、停戦調停に2カ月以上を費やしました。

北支事変の際は7月に決起し、翌月には北京を占領。その後は、極寒の時期を迎える前に北支全土の平定を行いました。また、8月8日に北京を占領した直後に、第二次上海事変を決起し、北支全土の平定までの間、11月までの約3か月間、南部の上海で戦闘を継続しました。北部では北支那全土の平定に3カ月南部では上海周辺に絞って3か月です。南部の上海の方が激戦ではありましたが、12月の北京、南京での、新自治政府(臨時政府)の同時樹立に合わせての計画だったといえます。

そのため、南部にある蒋介石政府の首都である南京を攻略は、11月末、北支の分離独立(新政府樹立)の目途が整ったところで開始されました。