第1次上海事変2―上海事変の勃発
第1次上海事変は、満州国の独立建国の約1か月前の昭和7年1月27日か始まり、同年3月1日付満州国独立後、3月3日に日本軍が蒋介石政府軍を退け、そこから停戦に向け交渉が開始されました。
蒋介石軍は、日本軍と比べ、上海地域だけでも十数倍の兵力差を持つ大軍でした。日本の目的は、満州国を、蒋介石政府の中華民国から分離独立させることでしたが、迂闊に戦闘に至れば、上海地域では、蒋介石の正規軍との軍事衝突になります。兵力では圧倒的に劣勢である日本軍は、出来る限り、軍事衝突は避けたいところです。
張学良が、蒋介石政府へ寝返るように見せ、病気と無能を装っては、日本軍に負け続け、結果、南部から派遣された正規軍も含めて、「蒋介石政府軍」を満州地域から全撤退させたことが、満州国の建国が実現した最大の要因と言えます。この時、第一次上海事変が、蒋介石政府側の独立阻止の目的で、日本軍の主部隊を、満州地域から、南部の上海へ引き寄せるために勃発したとすれば、タイミングとしては遅すぎな感があります。満州国の独立宣言(昭和7年2月18日)の20日程前です。第一次上海事変は、日本側が、満州国の独立宣言の前に、蒋介石政府の注意を南部へ引き付けるために決行したと考えます。北部へ軍事侵攻させないためです。
当時、上海には大規模な日本人租界があり、1万人以上の居留民がいたようすです。また、日本は常に、蒋介石に「襲撃=挑発」を受けていました。日本からすれば、いつでも「反撃」に出ることは可能であったと言えます。しかし、日本軍は、度々の挑発は受けつつ、ぎりぎりまで上海での「軍事衝突」は待っていたと考えます。
蒋介石は、張学良が「黒幕だった」ことに気付いていたかは不明ですが、「病み上り」で、「親の七光りの無能な二代目」程度に考え、「真の目的」には気が付かなかったかも知れません。しかし、満州事変により、旧北京政府軍閥(満州族)に、満州東北地域の軍事統制権を完全に奪われたことに変わりは無く、蒋介石からすれば、第一次上海事変は、満州国を支援していた日本へは「報復」だったともいえます。
昭和7年3月(1932年3月)発行「歴史写真」から
昭和7年1月(1932年1月)上海事変(其一)我が装甲車隊
記事:
上海に於ける抗日、侮日の形成は日と共に甚だしく遂には我が皇室に対する不敬新聞記事の掲載、帝國海軍の侮辱記事、日蓮宗僧侶の殺傷事件等続發し、是に對する我が軍部その他の要求事項に對して支那側は一も誠意を示すなく却て武力敵對行動の準備を進むるに至つた爲め、同地に於ける我が海軍はその陸戦隊を以て一月二十七日より斷然支那正規軍と戰ひを開始し、寡兵能く敵の大軍を撃破して居留民の安全を保つことが出来た。寫眞は二月上旬、上海来た停車場付近我が第一線に於ける装甲車隊と陸戰隊の奮闘振りである。
注)上記記事での「支那」とは蒋介石政府のことです。
「歴史写真」には、皇室に対する不敬新聞記事の掲載、帝國海軍の侮辱記事、日蓮宗僧侶の殺傷事件など、蒋介石政府からの邦人への侮辱行為や虐殺行為についての詳細は掲載されていません。しかし、上海で日本が攻撃を開始する前には、当然、蒋介石政府に対して、居留民の安全保護の観点から再三の抗議を行っていたようです。蒋介石としては、兵力では10倍以上の圧倒的な差があり、軍事衝突を起きれば、いつでも日本軍を一掃出来ると考えていたからこそ、日本人居留民への攻撃や襲撃を続けていたといえます。
日本は、当然、蒋介石の「目論見」を解った上で、満州国の独立が達成するまで、蒋介石の注意を満州地域から逸らすため、また、満州国が独立した際に、蒋介石政府(中華民国)と満州国の間での独立阻止の軍事紛争を回避するため、上海という「国際都市」での「軍事衝突」に踏み切ったと考えます。
昭和7年3月(1932年3月)発行「歴史写真」から
昭和7年1月(1932年1月)上海事変(其二)傳家の銘刀と便衣隊の逮捕
記事:
(右)陸戰隊を指揮する第〇中隊長村山中尉が右にピストル、左に傳家の銘刀備前長船をひつ掴んで今や戰線に走せ向はんとする有様。
(左上)人口三百萬、世界に名だたる國際都市の上海は今や一轉(一転)修羅の巷と化し去った。寫眞はその海岸通り。
(同下)支那の正規軍、便衣を来て暴虐を敢てす。寫眞は我が兵に捕はれたその便衣隊。
蒋介石政府軍を「支那の正規軍」と呼んでいます。張学良軍など本来は満州族の軍隊は「正規軍ではない」からでしょう。上海は、蒋介石が政府所在地とした南京より近く、蒋介石の直属の軍隊の配置地域でしたので、満州地域と異なり、日本にとっては、本当に過酷な「軍事衝突」であったと考えます。蒋介石政府軍は、兵士が軍服を着ず、一般民衆を装って攻撃を行う「便衣隊」を多用していました。民間人に対しては迂闊な発砲が出来ない事を利用し、悪質な攻撃を繰返していたようです。しかし、日本軍にとっては、敵国陣地の上、兵力では圧倒的に不利であり、何とか持ち堪えるには「市街戦」しか無かったといえます。
昭和7年3月(1932年3月)発行「歴史写真」から
昭和7年1月(1932年1月)上海事変(其七)陸戦隊の野砲陣地と本部展望臺(展望台)の海軍旗
記事:
(右上)支那兵意外に頑強、殊にその兵數(兵数)は我兵の十倍するのが優勢なる為め、連日の苦戰想像するに餘りあるものがあった。寫眞は上海郊外射的場に於ける我が陸戰隊の野砲陣地である。
(左上)敵砲弾照準の的となりあんがら畫夜(各夜)監視を厳重にする我が陸戰隊本部展望臺(展望台)に翻る海軍旗。
(同下)ブロードウエイ通り日本電信局前の鐵條網より見る避難民の雜踏(雑踏)ふりである。
当時、上海は、イギリスやフランスなどヨーロッパ諸国も租界地を持ち多くの外国人居留民が生活する「国際都市」でした。上海の都市部での「軍事衝突」は、居留民の人的危険だけでなく、商取引の停止など経済的に大きな影響を及ぼす事態となるのは必須です。そのため、「軍事衝突」が勃発すれば、すぐに列強国が「停戦」を求めて来るといえます。
日本としては、満州国の独立までの1カ月少々の期間、「紛争」を継続出来れば「本来の目的」は果たせます。そのため、上海事変は、満州地域での蒋介石軍の追出しがほぼ完了した昭和7年1月28日から開始し、同年3月1日の満州国独立の2日目後、3月3日に、日本軍の方から「停戦」し、その後は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの4国公使が仲裁役となり「停戦交渉」に入っています。
日本は、満洲国の独立まで、蒋介石政府軍と「軍事衝突」を継続し、独立とほぼ同時に「上海事変」を収束させました。蒋介石軍とは10倍以上の兵力差です。蒋介石を支援するイギリスやフランスも、上海では、戦闘継続は望まず、紛争の早期停止を要望したでしょう。日本が1カ月程度でも「軍事紛争」を継続し、日本の「好ましい」タイミングで「停戦」出来た理由も、場所が「上海」であったことが大きな要因といえます。
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