満州事変の真相5ー張学良の長期闘病

満州事変の真相5ー張学良の長期闘病

満州事変は、中国東北部(満州地域)を蒋介石政府(中華民国)から完全分離し、国家としての独立を目指した軍事クーデターです。蒋介石の統一政府から満州東北部を分離をするためには、何よりも先ず、蒋介石軍を満州東北部より全面撤退させる必要があります。満州東北部の軍隊は、張学良が率いており、張学良は「北伐完了」後は蒋介石政府側であったため、要は、張学良の軍隊が撤退すれば良いことになります。しかし、張学良が自ら撤退する理由はありませんので、第3者の何処かの国が「軍事侵攻」して来て、張学良が「大敗」したことにすれば、張学良の軍隊の撤退と共に、蒋介石の南部政府軍も全面撤退させることが出来ます。

満州事変では、張学良は殆ど活躍していないように見えますが、実際には、張学良が全てを操っていたといえるでしょう。第3者の何処かの国(=日本)が軍事侵攻した際には、蒋介石政府軍は「大敗し、撤退する」必要があります。張学良が率いていた「東北軍」は、表向き、蒋介石政府軍であり、それだけで数十万の大軍です。この大軍が、数万程度の少数の外国軍(日本軍)に、徹底的に負けなくてはなりません。当然、「負ける理由」も作っておかなくてはなりません。軍の総司令である張学良が、単に「無能」では「裏切っていた」事がバレてしまいますので、政治的に良くある理由ですが、「病気で長期療養」ということにしたようです。

昭和6年8月(1931年8月)発行「歴史写真」から
昭和6年6月(1931年6月)張学良の闘病

上記の左下の写真の拡大

記事:(下段右)六月上旬以来帚に罹りたる中華民国副総指令張学良氏は、病状捗々しからず、流言頻りに行われて一時は暗殺説さえも伝えられた爲め、弟張学銘氏は同月二十五日愛用のカメラを以て病褥の兄学良氏を撮影し、死亡説の訛傳なることを明らかにした。此の写真は即ちそれである。

捗々しからず(はかばかしからず):順調に進んでいない、回復に向かっていない / 病褥(びょうじょく):病床  / 訛傳(かでん):誤って伝えること

私は、本サイトで、張学良が非常な軍師であり策士であると明言しておりますが、9月の「決起」を前にして、6月から「死亡説」が出るほどの「闘病生活」に入っていたことが、「歴史写真」では伝えられています。

 

昭和6年10月(1931年10月)発行「歴史写真」から
昭和6年8月(1931年8月)張学良の闘病

左下の写真拡大ー最近の奉天総領張学良氏

満州事変決起の1カ月前は、張学良は依然闘病中であり、本を読むほどには回復したものの、床に伏している状況が続いていたことが報じられています。張学良は、北部東北部、特に、奉天の総領事でしたが、満州事変の発端となった「柳條溝の満鉄爆破計画事件」が起きた時には、依然として、「病気闘病中」であったため、「十分な指揮が取れなかった」のです。

そのため、王位哲は、張学良の配下(重臣)でしたが、張学良の闘病時に、自らの意志で、勝手に事件を起こしたという話に出来ますし、張学良は非常に重い病で床に伏せっていたため、日本軍の軍事侵攻の際には「全く指揮が取れず」、結果、不本意ながら、大敗してしまったことにも出来ます。

実際に、数か月も寝込むほどの「大病」だったのか、「仮病」だったのかは、解りません。前年の避暑地の「水着姿」の報道もですが、張学良は自分を「無能な二代目」に見せていたような傾向があります。また、一方で、蒋介石と積極的に信頼関係を築いていた印象も非常に強いです。そのため、張学良も誤解を受けているといえますし、日本が「中国侵略を行った」という誤解を受ける原因となったといえますが、この「どちらとも解釈出来る行動」により、蒋介石も日本も騙していたかも知れません。もちろん、日本とは9月からの軍事クーデターに向けての最終調整を数か月掛けて煮詰めていたといえるでしょう。

その点でも、病院での長期闘病であれば、「お見舞い」を理由に、日本政府側の要人も疑われる事無く出入り出来ますし、「重病」であり「死亡説」も出る程あれば、「心配なので頻繁に見舞う」ことも可能です。蒋介石にとっても、張学良により「北部東北部の離反」を心配する必要も無くなります。張学良と日本とで、軍事決起の極秘会議を行うには非常に好都合といえるでしょう。日本人であれば、これを見れば、「忠臣蔵の大石倉之助」を思い浮かべるでしょう。「遊び人」より「重病人」の方が、極秘会議は開き易いかも知れません。

以下は、前年1930年、張学良が蒋介石との会見に南京へ出向いた際の写真です。中央は、張学良の第2夫人、左は蒋介石夫人の宋美齢、右はその姉で浙江財閥の中心人物であった孔祥熙の夫人です。この写真を見れば、張学良と蒋介石が非常に友好的な関係であったような印象になるでしょう。ある意味、非常に長期計画的に「蒋介石を騙す」作戦に出ていたとも言えます。

結果、1931年9月の「柳條溝の満鉄爆破計画事件」の直後、日本軍は奉天を占拠し、張学良ともども、蒋介石軍を全軍追い出しに成功したのは事実です。これは、蒋介石政府側からすれば、大失態ですが、満州国の分離独立を目指していた満州民族にとっては、完璧な戦略であったといえます。所謂、孫氏兵法の極意である、「戦わずして勝つ」を実践した戦法といえるでしょう。

 

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