満州事変の真相3ー満州国独立軍事クーデター
満州事変とは、「北伐完了」以降、南部の蒋介石政府統治下に置かれた、旧支配層であった満州民族を中心とする北部が、蒋介石政府からの分離独立を図って決起した軍事クーデーターでした。当然、決起したのは、満州系の人々です。満洲国の独立は、日本の経済にとっては非常に大きなメリットにはなります。ですが、日本はあくまで天然資源が正常に輸入出来れば「十分」であり、国民の人命を犠牲にしてまで満州を独立させる理由はありません。何としても独立しなくてはならなかったのは、蒋介石の多額の対外軍事借款の債務を背負わされることになった北部東北部の旧清帝国系の人々のほうです。
蒋介石は、中国の植民地化を進めるイギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国の軍事支援を受けていました。要は、蒋介石政府はイギリスの傀儡軍閥政府であったということです。植民地化政策では、対象国内で大きな内乱を起こすのが手法です。「北伐=第一次支那動乱」の後、「中原大戦=第二次支那動乱」は、蒋介石が「北伐」で同盟していた他の軍閥を強引に排斥したことが原因で勃発しています。この事からも、蒋介石は初めから中国で大きな内乱を繰返す意図があったといえるでしょう。
また、共産党弾圧の事実からも、蒋介石が将来的にはロシア(旧ソビエト)と戦争を画策するであろうことも明白です。そうなれば、ロシア(旧ソビエト)と国境と接する北部東北部が戦場となり、また北部東北部の人々が最前線の軍事要員として「利用」されます。イギリスが「世界恐慌」の影響から脱し、再び優勢に転じる前に、北部東北部を蒋介石政府(中華民国)から完全分離独立しておかなければ、今度は、満州地域は、ロシア(旧ソビエト)により軍事侵攻され、場合によっては、ロシア(旧ソビエト)の支配下にされる可能性もあります。
日本に支援を求めたのは、ロシア(旧ソビエト)への対抗措置ともいえるでしょう。日本が関わっていれば、ロシア(旧ソビエト)も迂闊には軍事侵攻出来ません。日本、中国北部東北部、ロシア(旧ソビエト)にとって、軍事的対立を避け、最も犠牲や被害を出さない解決策が、満州国の分離独立であったと言えるでしょう。日本を関与させるために、日本の管理下にあった満州鉄道を襲撃したのです。
昭和6年11月(1931年9月)発行「歴史写真」から
昭和6年9月(1931年9月)満州事変写真ー王以哲の軍事決起
記事:
寫真の右に示したるポスターは支那兵の満鉄破壊計画を証明するもので、右は北大営兵営内に貼られありたるもの。左上は王旅長の訓示。同下は王旅長の秘密命令文書の焼け残りである。又、左上は奉天商埠地の大通りに於て市街戦に備へつつある我が装甲車。同下は支那兵が我が鉄道を爆破したる際の破片と現場に遺棄されありたる彼等の軍帽、銃器其他である。
この時の中国の北部東北部は、張学良の奉天軍が、蒋介石政府軍下に入ったため、兵士としては、表向きは「支那兵」=「蒋介石政府軍の兵士」という言葉が使われています。ですが、この時は「支那兵」として、実質的には、張学良の「奉天軍」に属する兵士が動きました。
王旅長の訓示
上記の「旅訓」は、満州鉄道を襲撃した「支那兵」の総指揮を執った首謀者による、軍事行動決起の宣言書=満州鉄道襲撃の決起書です。写真の左側に首謀者として「王以哲」という名前が記載されています。これは、満州事変での満州鉄道の襲撃計画の主犯が「支那軍」の王以哲であるという証拠です。
旅訓:
我民族受強鄰之壓迫危在目前凡
我旅官士兵夫等務本
總理遺囑及司令長官意旨犠牲一切努力工作
以互助之精神结成團體共赴國難
旅長王以哲
以下は、日本語訳です。(機械翻訳)
我が民族は強い隣人による圧迫(圧制)の危機を目前としているため、我々旅団の将校、兵士らは、行動を起こす(決起する)。総理の遺言及び司令長官の意志を受け、一切を犠牲にして、懸命に努め、互助の精神を以て、団体を結成し、国難に立ち向かうものである。旅団長 王以哲
(昔の軍制で五〇〇人の軍団を「旅」といった。また、軍隊が移動することから「旅行」となり、旅団とは小規模軍隊の意味となる)
王旅長の秘密命令書
また、下の「王旅長の秘密命令書」の焼け残りにも、「王以哲」の名前があります。
こちらには、「午前二時実行」とあります。しかし前日午後10時30分頃に鉄道守備隊に発見されており、計画していたような大規模な「爆破は失敗」に終わったようです。
「王以哲」という人物は、満州出身の軍人であり、満州民族です。蒋介石側で、張学良は自ら率いていた「奉天軍」を、蒋介石政府下に入った以降は、「満州など中国の東北地域に展開する軍隊」=「東北軍」としていました。王位哲は、後に、この「東北軍の総司令」になった人物であり、黒竜江省の出身であることからも、張学良にとっては直属の配下といえる人物でした。
王以哲:黒竜江省出身(満州人)。東北軍陸軍独立第7旅団司令官。
張学良の西安事件以降は、東北軍の中心人物となり、張学良及び関係者の釈放と穏便な解決を求めた。その責任を問われ暗殺された。
(左の写真は、Wikipediaから)
満州鉄道の襲撃計画の目的
王位哲の「旅訓」に記載の通り、「強鄰之壓迫=強い隣の圧迫」を理由として、「日本」により運営管理されている満州鉄道の「破壊を企てた」のですから、「強い隣は日本」という事になります。この満州鉄道の襲撃事件は、表向きは「支那軍」ですが、実質的には「奉天軍」であり、日本にとっては「味方」です。その本来は日本とは軍事同盟関係にあった「奉天軍=満州軍」が、味方である日本に対して、攻撃を掛けた事件ということになります。非常に可解に思えますが、この鉄道襲撃の目的は何かと言えば、満州国の分離独立クーデターを決行するにあたり、日本軍を本土から大量に満州東北地域に移動させる「大義名分=理由」を作るためです。
現在の歴史認識では、満州事変から満州国建国まで、全て、日本が主導したという理解になっていますが、当時の実際の状況を考えれば、満州民族としては何としても蒋介石政府からは完全離脱を図りたい「動機」があります。蒋介石が作った多額の対外軍事借款の返済義務を回避する目的だけでも十分でしょう。
この時、満州国の分離独立で最も大きな障害となることは何か? それは、満州国と蒋介石政府(中華民国)との間での戦争です。これを回避出来なければ、再び、この独立建国への動きが、更なる大きな南北戦争を引き起こすことは明白です。これを避けるため、第3者による介入が必要だったのです。要は、日本軍が、支那軍と戦い、勝利すれば、日本が領土の分割を理由に、満州地域を分離独立させられます。日本が支那軍と戦った上での勝利ですので、中国という国の内部での分裂対立にはならないということです。
満州国の分離独立の際には、蒋介石軍が「負けた結果」での「分離独立」であれば、南部の本来の蒋介石政府軍が、満州国の分離独立を阻止するために、新たな「戦争を起こす大義名分が無い」ということになります。
そのため、まず、日本が管理運営の権益を持つ「満州鉄道」の「爆破を企画」し、これを大々的に「宣言」します。次に、満州鉄道の線路付近で、蒋介石軍である奉天軍(満州軍)と日本軍との間で、軍事衝突を起こし、これを理由に日本軍が奉天を占領します。また、この軍事衝突を「深刻な問題」として、日本が本土から大量に軍隊を移動させ、蒋介石軍である奉天軍(満州軍)を含め、南部の蒋介石政府の本来の軍隊(南軍)を満州東北部から一掃しておけば、満州国として分離独立した際に、国内に「反乱分子」がいない状況が生み出せます。
日本は、そのために、本国から大量の軍隊を満州地域へ派遣したのです。満州事変の発端となった「満州鉄道の襲撃事件=柳条溝事件」を、張学良の配下が指揮した通り、満州事変は、張学良が「裏」で指揮して起こしたものです。張学良は、蒋介石側で軍隊を率いていました。しかし、実態は、蒋介石政府軍であっても、奉天軍であり、それは満州軍ということです。要は、日本は、自国の「味方」と戦っていたということです。それが、蒋介石軍=支那軍が、数十万という軍にも関わらず、精々3万程度の少数の日本軍が、「有得ない程」簡単に奉天という都市を占拠出来た理由です。
Wikipedia等では、満州事変では、「南満洲鉄道の線路を爆破した事件」とされていますが、真相は、「爆破を計画した事件」です。昭和6年9月(1931年9月)18日の事件では、線路は爆破されていません。爆破計画であり、未遂でした。その後の「軍事衝突」では、小規模ですが、鉄道の爆破もあったようです。これにより、「鉄道が爆破された」となったようですが、爆破計画は「爆破を企てつつあったのを我が鉄道守備隊が発見したる」とあります。そこから「軍事衝突」に入っていますので、この計画は、計画だけで、失敗に終わっていると言って良いでしょう。南満州鉄道は、満州民族にとっても「資金源」です。実際に「爆破」することは回避しつつ、300名もの支那兵で押し掛け、まるでわざと「発見される」ような真似をしています。
王位哲の率いていた東北軍陸軍独立第7旅団は、実態は、奉天軍であり、満州軍です。南満洲鉄道で利益を得ていたのは、何よりも、満州地域ですので、破壊を計画はしても、実際に破壊することなど有得ないでしょう。軍事衝突の理由としては、「計画」で十分です。目的は、軍事衝突の結果、日本軍に奉天を占領させることだからです。これは、実質的には、満州軍が、蒋介石軍から、奉天を奪回したのと同じ意味になるからです。日本軍は、蒋介石政府軍の「上着」をはがず役割をしたということです。