日英会談の真相1-イギリスの中国撤退の協定

日英会談の真相1-イギリスの中国撤退の協定

昭和14年9月(1939年9月)発行の「歴史写真」では、「歴史的日英会談」として、1939年7月の「有田・クレーギー会談」の特集が組まれています。これは日本とイギリス間での「歴史的な」と題されるほどの重要な国際会談でした。現在の日本近代史では、単に、天津のイギリス租界で親日派の中国人の海関監督がイギリス側の人間により暗殺される事件が起き、その犯人の引き渡しに関しての会談という事になっています。しかし、これは表向きの内容で、実際に話し合われたのは、イギリスに中国からの実質的な撤退を約束させる事でした。そのため、何日も掛け何度も話し合われたようです。また、それが達成出来たため、日本国内では「歴史的会談」と報道されるに至っています。

 

昭和14年9月(1939年9月)発行「歴史写真」から
昭和14年7月(1939年7月)-歴史的日英会談(1)

記事:

日英兩國は、天津租界問題に闘し具體的協議を行ふに先だち、日本代表有田外相と、イギ リス代表クレーギー駐日大使と、七月十五日以来 東京霞ヶ關なる外務大臣官邸に於て、天津事件の背景を成す一般原則問題に就て前後 四回に亘る會談を行ひたる結果、同月二十二 日深更に至り、イギリス側大譲歩して途に協定は正式に成立し、イギリスは從來の對日敵性行為を放棄し、東亜新秩序の建設に全面的協力をなすべきことを契ひ、七月二十四日、 兩國政府より、夫々右會談の結果に關する聲明書を表した

写真:

寫真の(右)は會談に際し 東京市中に掲つた反英アドバルーンの一つ。
(左)は會談の進行中、外相官邸に於ける日英兩代表の歴史的記念撮影に係るものである

 

この会談は、天津事件の処理についての会談とされていますが、実際には、日本がイギリスに対して、中国での植民地化政策からの実質的な撤退を約束させた会談でした。蒋介石を介しての日本(中国)とイギリスとの戦争に「終止符」が打たれた意味がありました。

右下に掲載の記事には、イギリスは「日本の東亜新秩序の建設に全面的に協力をなすべきことを誓い」と記事に書かれています。翌24日には、両国政府より「声明書」を発表しています。戦後は、この事実については完全に葬り去られたといえるでしょう。当時の日本では、反蒋介石=反イギリスのデモが開催されるなど、イギリスに対しての敵対心を露わにしていたようです。

 

昭和14年9月(1939年9月)発行「歴史写真」から
昭和14年7月(1939年7月)-歴史的日英会談(2)

記事:

イギリスは、支那事變勃發以來今日に至るまで、 己が權益の擁護を名として陰に陽に援蔣行為を繼續し、我に對し事毎に敵性を示しつつあつたが、 偶々天津租界問題勃するに及び、我方は是を機會に、イギリスの真意を暴き、その態度如何に依ては、断乎膺懲の決意を固め、全世界人注視の裡に東京會談を進めたが、イギリスは全面的には我方に協力する旨契ひたるも、局部問題の討議に當りては俄然態度を一変し、我方の要求を拒絶して、今や倒談は一頓挫を來すに至つた

写真:

(右上)七月十五日、 第一次會談當日、外相官邸會議室に於ける有 田・クレーギー兩代表。
(左上)七月十七日、第二大會談に臨むため、薬山の別荘より帰京した クレーギー大使夫妻。
(右下)外務大臣官邸内 日英會談の開かれた議場内部の控室。
(左下) 七月十四日、東京日比谷公園に於て開鍵された反英市民大会の参加者が英國大使館前に盛なるデモ行進の有様

 

上記の記事にあるように、天津租界問題は「偶々」起きた事件であり、日英会談では、日本はあくまでイギリスの中国撤退を約束させる意図だったといえます。蒋介石の政府は昭和12年(1937年)12月の南京陥落で壊滅しています。南京から敵前逃亡した蒋介石は、武漢や重慶に逃げては政府が存在するかの如く振舞っていましたが、日本軍により武漢や重慶も奪回又は攻撃され、蒋介石が再興する見込みも無い状況でした。ノモンハン事件で、日本がロシアに圧勝したことも、大きな圧力となったといえます。

日中戦争は、蒋介石からの「中華民国」の奪回が目的でしたが、最終的にはイギリスの撤退を視野に入れた戦いだったのです。

 

写真拡大ー有 田・クレーギー兩代表

この日英会談に至る前に、蒋介石政府を中国から完全に壊滅し、蒋介石というイギリスの中国での「手下」を排斥に成功しています。日本の明治維新の際には、日本での蒋介石に当たる人物が坂本龍馬でした。日本は大規模な内乱が勃発する前に、イギリスによる植民地化の「中心人物」を惨殺しました。イギリスは、それ以上は「利無し」と判断して、中国への進出へ向かって行きました。日本が行ったことは、日本が明治維新の際に行った対応と良く似ていたと思います。 ここで、蒋介石の暗殺が達成出来ていれば、日本イギリスは、中国では貿易を中心にした展開に切替えざるを得ず、必然的に、日本とは良い関係でいられたかも知れません。

 

昭和14年9月(1939年9月)発行「歴史写真」から
昭和14年7月(1939年7月)-歴史的日英会談(4)

 

記事:

天津局地具體問題を協議する日英現地代表會談は、七月二十 四日より外務次官々邸に於て開催せられた。

写真:

寫真の(右上) 當日の記念寫真で、右方クレーギー大使と談話せるは我が代表加藤公使、中央有田外相の右は英の代表ハーバート鎮事、 外相の左は武藤少將、ビスコツト少將、河村大佐等である。
(左上)左より田中天津領事、加藤公使が、東京會談現地代表として入京、澤田次官と見しつつある有樣。(右下)七月二十五日天津租界治安警察問題に頭する日英委員會の光景で右より大田少佐、田中領事、ハーバート須事、ビスコット少將
(左下) 現地合談の外務次官々是正門まう同玄場を望む

 

写真拡大ー日英現地代表会談

 

写真拡大ー日英現地代表会談

上記は、七月二十五日天津租界治安警察問題に頭する日英委員會の光景です。心無しか、イギリスの代表者の顔の方が険しい感じがします。

 

天津のイギリス租界での暗殺事件が、偶然か意図的だったかは不明です。しかし、この殺人事件が発端で、イギリスが「日本の東亜新秩序の建設に全面的に協力をなす」べきことを誓う「声明書」が日本とイギリスの両国政府から発せられたのです。 昭和12年(1937年)7月の「北支事変」、8月の「第二次上海事変」から続く、約2年の蒋介石との戦いの結果、ようやく日英会談に漕ぎ着け、イギリスに中国からの実質的な撤退を約束させるに至りました。昭和14年(1939年)7月の、この日英会談は、ヨーロッパのアジア植民地化政策の歴史において、大きなターニングポイントになる会談であったと言えます。

一方、イギリスが中国から駐留軍を完全撤退したのは翌年1940年でした。イギリスは、蒋介石には「北伐」以来、長年に渡り、多額の軍事借款を行って来ました。この時点での撤退は、イギリスにとっては多額の経済損失に繋がります。しかし、この日英会談の協定により、イギリスの中国での影響力は一気に弱まったといえます。既に、蒋介石政府を失い、中国での植民地化の足掛かりを断たれてしまった以上、撤退は時間の問題だったといえます。更に、この2か月後の1939年9月(昭和14年9月)に、ヨーロッパではヒットラー率いるドイツ軍がポーランド進撃を開始し、第2次世界大戦が勃発します。ドイツがイギリスを徹底攻撃した事が、イギリスが中国から完全撤退する最終的な決定打になったのは言うまでもありません。現在の歴史理解では、日本と蒋介石(中国とイギリス)の戦いと、イギリスの中国完全撤退に、ヨーロッパ側でドイツがいかに貢献してくれたか、その認識は全く無いと思いますが、最終的にはドイツの協力を得て、遂に、領土借款中の香港以外、中国全土からイギリス軍が撤退するに至りました。

 

昭和15年10月(1940年10月)発行 「歴史写真」から
昭和15年8月(1940年8月) 中国のイギリス駐屯軍の一斉撤退

記事:

(右上) 獨軍の猛襲下に危機一髪のイギリス は、內外の事態を考慮 したる結果、遂に北京天津、上海等に駐在す る自國の軍隊を一齊に 撤退、香港に引揚ぐる ことを聲明、八月中旬より逐次實行に取掛つ た。

写真:

寫真は上海南京路 競馬場を出する上海 引揚げ英兵
(左上)  八 月九日、大山大尉等の 三周年を迎へ、遭難現地に於て盛大なる追悼 會を催した。寫真は武田上海陸戦隊司令官以下戦友の拝。
(右下) 朝井閑右衛門氏等若手署家十氏は一ヶ月の旅程を以て北南京等を視察為寫生し、八月十三日これも大に畫嚢をふくらませつつ帰した。寫真は南京に於て汪精衛氏 モデルとなし得像の製作をなしつ ある朝井羅伯

(中下) 小癪にも宜 奪還などと口走り、逆襲を試みる敵があるので、岡方面の前線を守する藤田部隊の勇士巻、百三十度炎天下に裸設となつて敵の動が上 現してあるところ
(左下)八月 上海の引揚を前にして、静安路が安路一 場に於て、イギリス駐屯軍が觀兵式を挙行しつつある有様である。

 

その直後から、日本は、蒋介石に敵対していた汪兆銘を中心に、中国の5民族をまとめ新しい中国政府の樹立を支援していきます。
翌年3月には新支那中央政府が設立しました。

イギリスの対外政策が、第二次世界大戦の勃発を経て、イギリス本国の防衛に重点が移っていく中、蒋介石は支援先をイギリスからアメリカへ乗り換え、事態の打開を図ろうとしていきました。これが、本来、日中戦争には直接的な関係は無く、太平洋を隔てた遠い国であるアメリカが、中国、アジアでの紛争に関与して来た最大の理由です。