日本軍の圧勝の真相15-臨汾・垣曲の占領

日本軍の圧勝の真相15-臨汾・垣曲の占領

山西省方面は、前年、昭和12年(1937年)10月、北京方面から、太行山脈に沿って、山西方面へ南下した部隊が、太原方面から更に南下し、昭和13年(1938年)2月には臨汾に迫っていました。中国の北支那の西側には、太行山脈という大きな山脈が走っています。以下の地図の通り、石家庄付近からは、山脈が3つに連なっています。そのため、石家庄からは、太原方面と、鄭州方面で二手に分かれたようです。当時、京漢線と呼ばれた路線沿いに南下しました。鄭州へ向かうには、黄河を超える必要がありました。黄河を超え、中国の中央部へ進めば、南部政府であった蒋介石政府の軍隊との衝突が想定されました。そのため、まず、日本軍は、黄河より北部の完全掌握を果たしました。日本軍の完全占領とは、即ち、蒋介石政府から中国が完全独立を果たしたということです。

昭和13年4月(1938年4月)発行 「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)津浦線に沿い敗敵追撃中の我が部隊

記事:

北支の戰線は、しばらく鳴りをの靜めてみたが、二月十一日、紀元の佳節を期して我軍は一齊に火蓋を切り、山西省に於ては、臨汾附近在の約三十個師、京漢線方面に於ては鄭州を中心とする約二十個師、清浦線方面に於ては徐州附近の約四十個師を向こうに廻し、近く驚天動地 の一大殲滅戰を展開すべく、全軍異常の緊張味を示してゐる。

写真:

寫眞は清浦線に沿 ふて敗敵追撃中の我軍で、此方面に於ては、山東省より南下したる一軍と、揚子江より北上せる一軍とが、南北呼應して徐州の大敵を屠らんと、勇氣凛然正に當るべからざるものが あるのである。

 

昭和13年2月21日時点、蒋介石軍は、臨汾が30個の師団、鄭州では20個の師団、徐州は40個の師団でした。徐州では40個師団で約50万人の兵力をでしたので、臨汾では約37万人、鄭州では25万人規模の大軍でした。「歴史写真」の記事によれば、日本軍は、第二次上海事変の際に、蒋介石とは十数倍の兵力差がありました。日本軍は、当時、北支那方面全体で約3万5千~4万人程度だったようです。徐州大会戦では、蒋介石政府軍は50万人でした。しかし、日本軍は、南京からの北上ルート軍が徐州に到着後、たった1~2日の総攻撃で、蒋介石政府軍を城内から追出し占領しました。当然、これが達成出来た理由は、蒋介石とその直属軍閥を除いた大多数は、初めから北部政府側であり、日本軍側であったためです。

日中戦争については、これまで「日本が惨敗した」という「嘘の歴史」が世界的に広まっていました。これは、普通に考えれば、日本軍が蒋介石軍に勝利するなど有得無かったからでした。しかし、日中戦争は、初めから、蒋介石を中国から追放することが目的だったと考えれば、数千の日本軍が数十万の蒋介石軍に大勝利したとしても不思議はありません。

 

昭和13年5月(1938年5月)発行 「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)大黄河以北の粛清-黄河対岸及び霊石の敵陣猛砲撃

 

記事:

紀元の佳節を以て開始せられたる我が黄河作戰は、北部河南、南部山西に蟠居する四十數師の大敵を掃蕩し、以て大黄河以北の地を完全に肅清せ んとする意圖に出でたるもの、而も神速果敢なる皇軍は、行動僅かに四週日、所在の天嶮と要地に據る頑敵を撃破殲滅し、忽ちにして正面百里、 縱深亦百里に及ぶ大地域を美事に席捲したのである。

写真:

寫眞の(右下)は汾河右岸地區を疾風迅雷的に南進し、殘敵を追撃騙して偉勲を樹てたる岡崎部隊が、畑地の中の坦道を砂塵を蹴立てて驀進しつつある壯觀。
(左上) 艱苦を物ともせず道なき道を猛進する我が砲兵隊の人馬である。

紀元の佳節:2月11日

日本という国は、江戸時代という国内外での戦争の無い250年を経て、明治時代になってから急に外国との戦争に至った家です。一方、中国とは、数千年の歴史の中で、数多くの国家が戦争を繰返して来ました。これはロシアも同様です。軍事力の規模も日本の方が圧倒的に小規模でした。日本が勝利しましたが、日清戦争も、日露戦争も、普通に考えれば、日本が勝利出来る戦争ではありませんでした。当時、中国の植民地化を進めるイギリスとフランスに対抗するため、清帝国とロシアは、第三勢力として、日本を敢えて中国大陸での対立に関与させたのでした。日中戦争は、満州事変と同様に、初めから、蒋介石政府を潰滅する目的で進められた計画でした。現在の中国の人々は、中国軍は、本来、日本軍とは比較にならない程、戦闘能力も高く、兵士としても、軍隊としても、歴戦を経験したエキスパートだったということを忘れていると思います。急に開国し、急に外国での戦争に駆り出された日本軍は、一見、非常に強い軍隊に思えたとしても、実質的には「戦いを知らない民族」でしか無かったでしょう。

日中戦争で日本軍が勝利できた理由は、蒋介石政府軍が戦闘を放棄したためです。なぜ、各地で戦争を行ったのかですが、日本軍との戦いの理由の一つに、蒋介石政府軍の兵力と軍備を、蒋介石にバレることなく、死傷者を出すことなく、後の中国新政府軍に「移行」する目的があったのではと考えます。

 

昭和13年5月(1938年5月)発行 「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)大黄河以北の粛清(四)-黄河畔 垣曲占拠

垣曲という都市は、臨汾から洛陽に向う途中、黄河の北岸にあります。

記事:

皇軍の黄河作戦大成功 に依り、山西軍、 中央軍、共産軍の各軍合せ二十七個師二十五萬の頑敵に殲滅的打撃を與え、山西の全面的清掃茲に殆ど完了し、 支那軍の國防第一線とも稱すべき所謂蒋介石ラ インたる隴海線は今や完全に危機に陥り、その戰略的地位が甚だしく脆弱化するに至った。

写真

寫真の(右上)二月末、 山西省の南端垣曲附近の峻験を蜿蜒長蛇の陣を張って進撃しつある皇軍。
(左上)大黄河畔垣曲目蒐けて殺到したる我が部隊は、二月二十八日黄河の岸に向つて潰走する敵に大打撃を與へつ 午後五時完全に是を占した。
前方の部落は即ち 垣曲。
(左下)谷川の清水を水筒に掬み取る兵士。
(右下) 垣曲城に入らんとする駱駝隊である。

 

当時、中国共産党の毛沢東率いる共産軍は、昭和11年(1936年)12月、張学良がおこした西安事件で、中国共産党軍と蒋介石政府軍が「休戦」に至っりました。日中戦争が勃発した後は、蒋介石政府軍側で参戦していました。そのため、現在の歴史では、「国共合作」として、中国共産軍と蒋介石政府軍が「同盟」したことになっています。要は、毛沢東と蒋介石が同盟したという印象です。しかしながら、日中戦争とは、旧中国北京政府の軍属と李宋仁率いる南部の軍閥など大多数の中国人が、蒋介石を中国から国外追放することを目的でした。その中心人物が、蒋介石による中国共産党への攻撃を止めた、張学良でした。当然、中国共産党は、表向きは、蒋介石政府軍側であっても、実際には、旧北京政府側であり、日本側で参戦していたのでした。

日中戦争に関するWikipediaの説明では、共産党軍は50万人となっていますが、明らかに間違いです。共産党軍は、昭和11年(1936年)12月時点までで、約10年間、蒋介石政府軍により徹底的な軍事攻撃を受けていました。張学良の西安事件の際には、軍隊の存続危機に瀕する程に弱体化していました。以前は21万人規模であったのが、三分の一の7万人まで落ち込んでいたと言われています。停戦後、1年ほどで、50万人規模に拡大したのは極めて不可解です。実際には、上記の記事の通り、山西軍、 中央軍、共産軍を合わせて、25万人でした。山西軍は、閻錫山が総大将でした。また、中央軍は馮玉祥が率いていたと考えられます。かつて、この2名は同盟し、中原大戦=反蒋介石戦争を起こし、蒋介石と戦争した人物達でした。中原大戦は、張学良が、大規模内乱化を阻止するため、閻錫山と馮玉祥を説得し、蒋介石との戦争を停戦させました。中国共産党についても、10年近い戦争で撲滅寸前まで追い詰められた過去がありました。こうした「深い怨恨」を持つ軍閥が、蒋介石の味方をする理由がそもそも無かったと言えます。増してや、既に、蒋介石政府の首都は陥落し、政府は実質完全崩壊した後です。

結論からすれば、当時、中国共産党の軍隊は、1年間で多少増加したとしても10万人程度。西安から西の甘粛省の守備や各地への活動要員も考えれば、派兵可能な人数は5万人程度だったのが実情と考えます。一方、日本軍は、北支那全土で3万~4万という記事がありますし、軍隊は3方面に分かれていました。山西方面では、数千人規模だったかも知れません。初めから、味方との形式的な戦闘であれば、数千人規模でも問題無く、圧勝という結論に至れたからでしょう。

 

昭和13年5月(1938年5月)発行 「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)臨汾城に入城す

記事:

同蒲線に沿ひ堂々南下し、既に霊石、霍州、趙城等の要地を占したる我軍は、 二月二十七日午後四時、敵の要衝臨汾を占領し、同地 一帯の殘敵を全く袋の鼠と なした。臨汾は四千年の昔 支那古今の英帝堯の都したる平陽の地で、山西の主都太原の南方に於ける同蒲線上最大の要地として、嘗ては閣錫山が太原敗退後、此地を本據とし て陣を構へたところである。

写真:

寫眞(右上) 臨汾に在る堯帝の廟で、遠く四千二百年前の創建と博へられ、 現在の建物も相當年 代を経たるものであ る。
(右中)皇軍騎兵隊、今堂々臨汾入城の光景。
(右下)皇軍の臨汾占據と共に 治安維持會設けられ その開會式に委員長が宣誓しつゝあると ころ
(左)戰のひまに一と休みの我が、 愛すべき兵士達である

上記の記事に記載された、霊石、霍州、趙城は、太原から臨汾への途中にあります。臨汾という都市は、かつては平陽と呼ばれ、首都として栄えたこともある場所のようです。閣錫山は、太原での大戦で大敗し、撤退していました。これも、李宋仁が、徐州で行った「大敗ー撤退」の茶番劇と同じだったといえます。

写真拡大ー臨汾での治安維持会の設立

上の写真の通り、臨汾においても、日本軍の占領後は、直ぐに、治安維持会(自治政府)が樹立しました。

 

昭和13年5月(1938年5月)発行 「歴史写真」
昭和13年2月(1938年2月)山西省西南端蒲州の占領

記事:三月四日、臨汾の南方聞喜を通過し、南進中の金 岡快速部隊は、途中百餘ヶ所の破壊個所を修理しつ 前進又前進、同月六日午後三時に同蒲線の終點蒲州を占領、城頭高く日章旗を 鯖へした。

写真:

寫真の(右上) 蒲州附近を守備する我軍で、 残雪斑らなるところ、彼方には黒河の流れがある。
(左上) 蒲州に向って山間の陰路を前進する輸送隊。
(右下) 蒲州を占して繋ぐる 喊聲、前方は満々たる黄河の流れ。
(左下) 蒲州を守る我が歩哨、流れは即ち黄河。

山西への進軍は、昭和13年(1938年)3月6日の午後3時の時点で、同蒲線の終点だった蒲州の占領を完了しました。こちらも臨汾から進軍後、2日で達成したようです。