新支那中央政府樹立の真相3-青島会談

新支那中央政府樹立の真相3-青島会談

昭和14年(1939年)9月19日の新支那3巨頭の歴史的会見から4か月後、昭和15年1月、北京(満州民族系)、南京(漢民族系)の政府代表に加え、その他の内蒙古、ウイグル(蒙彊)の政府代表を加えた重要会談が青島で開催されました。

 

昭和15年3月(1940年3月)発行「歴史写真」から
昭和15年1月(1940年1月)ー 青島会談

記事:汪兆銘氏を中心とする新支那建設の基礎を確立すべき青島会談は、汪兆銘氏を始め、臨時政府首班王克敏氏、維新政府首班梁鴻志氏の間に、1月23日より同地迎賓館に於いて前後4日間に亘って開催せられ、中央政府組織に關し(関し)汪兆銘氏によって立案された具體方式(具体方式)を検討したる結果、3氏の極めて友好的態度により、意見全く渾然(こんぜん)一致し、玆に(げんに)新政府樹立の大綱決定した。

 

写真:右上は記者団に対し熱弁を揮って会談の成果を発表する汪兆銘氏。/左上は会議場たる迎賓館の全貌 /右下:維新政府代表梁鴻志氏。/下中:臨時政府代表王克敏氏。/左下は蒙彊聯合(連合)自治政府代表として青島会談に来たり、汪兆銘氏と会見、円満なる意見の一致を見たる李守信将軍である。

渾然(こんぜん):ことごとく全て/ 玆に(げんに):ここに

 

青島会談についても、現在の歴史認識では、殆ど重要視されていないようです。しかし、中国の歴史変遷の中で、現在の中華人民共和国に至る「重要な転換点」となる会談であったといえるでしょう。

もともと、清帝国は、満州民族が統治者でしたが、実際には、漢民族、蒙古族、ウイグル族、チベット族など、夫々に「王が存在する」の連合国家でした。李氏朝鮮、ビルマ、ベトナムなど東南アジアは「王が存在する属国」であり、清帝国とは、アジア全土をまとめる「大きな連合国家」だったといえます。

青島会談は、この「連合国家」体制を、新政府の下での「再構築」に向けての第一歩とも言える会談だったといえます。かつての清帝国の領土回復を目指し、新体制では「属国」ではなく、各国が対等の「連合同盟国」を目指したのでは無いでしょうか。当時の「アジアの安全保障」という意味では、アジア全体が一つに纏まるしか無かったかも知れません。

 

「東亜新秩序」構想とは

日本が当時の中国と目指していた「東亜新秩序」とは、領土的には、かつての「清帝国の再現」を目指した構想だったといえるでしょう。東アジアが纏まって「大きなアジア」になることで、植民地化も、内乱も無く、また、経済面でも安定した流通や循環を確保出来ると考えたと思います。

ところが、日本の敗戦後は、蒋介石に有利なシナリオで歴史が歪曲されたため、「満州国は日本の傀儡国家」、「新支那政府は日本の傀儡政府」、「関係者は中国の裏切り者」とされました。日本が提唱していた「東亜新秩序」構想も、「日本がアジア全土を支配下に置く」など、そもそも、日本の極めて少数の軍隊では「初めから無理」な話に置き換わったといえます。

普通に考えれば「絶対に無理」なことですが、中国では、実際に、日本が各地を占領出来ていたため、戦後、中国、アジア、初め、世界中が、「日本がアジアを支配下に置く」とか「日本がアジアを植民地化する」とか、こうした話が実しやかに信じられて来ました。普通に考えれば、日本が、なぜ出来ると信じて来たのが本当に不思議です。中国でも、トリックが無ければ、日本軍が勝利する等有得ません。

上記は、植民地化の具体的な手法について知らない人が多いことが、大きな原因の一つだったかも知れません。植民地化とは、対象となる国で、先ず「内乱首謀者」を作り、民衆同士の内乱で国家経済を疲弊させる一方、内乱首謀者に多額の軍事借款を背負わせ、国家統一後は、その国務債務の返済を理由に国家と民衆を奴隷化し、債権国が支配する政策です。

初めから「外国」として、直接、戦っている時点で、植民地化にはなりません。戦争の賠償として、領土の分割譲渡や鉄道網の権限譲渡はあっても、金銭契約が無ければ、国民を奴隷化(無償労働)させることは出来ません。民衆を奴隷化するには、返済義務を負わせる必要があるのです。

こうした植民地化の「手法」を理解出来ていないと、「日本がアジアを支配下に置く」という話も信じてしまうでしょう。実際に、日本はアジアを占領下に置いていました。ですが、当然、欧米諸国を排斥するためであり、水面下での同意の上です。そして、「東亜新秩序」を目指していました。

しかしながら、「東亜新秩序」とは、欧米の植民地化危機を脱するために、日本、中国、周辺民族、東南アジア諸国が、団結して、大きな防衛網を構築するという構想だったのです。当然、中国が中心的な存在を担う事は必須でしょう。清帝国の時代とは異なり、「属国」ではなく、各国が独立した主権国家として、大きな連合国家の同盟体制を作るという構想です。ですから、「新秩序」なのです。

まるで、これを、日本が一国で強引に進めていたかのような印象がありますが、普通に考えれば、日本が他国の意向を無視して何かが出来る訳はありません。当時、日本が表向き提唱していた「東亜新秩序」構想は、現在のアジアの安全保障体制にも通じる非常に意味のある構想であったと思います。

 

写真拡大ー汪兆銘の新政府樹立の大綱決定

上記、新支那中央政府の大綱の決定を、中国の国内外に発表した際の写真です。

 

写真拡大ー青島会談に出席する梁鴻志(南京政府代表)

 

写真拡大ー青島会談に主席する王克敏(北京政府代表)

上記の写真、右側の黒い眼鏡の人物が王克敏です。

写真拡大ー青島会談に主席する李守信(蒙古新疆連合政府代表)

上記、右側の中国服の人物が李守信です。この人物は、内蒙古の徳王率いる軍隊の将軍であり、内蒙古と蒋介石政府との戦いで、内蒙古を独立に導いた人物でした。日本とも非常に親しい関係でした。

李守信は、モンゴル人で、清帝国滅亡後のモンゴル自治政権の成立に非常に貢献した指導者の一人です。モンゴルとウイグル地区がある中国北方地域の政治的安定や、中国の統一政府の樹立にも貢献しました。李守信は、当時日本が支援して樹立した、モンゴル(蒙)とウイグル(彊)の連合自治政府の代表として、今後の新支那中央政府との関係強化や会談の動向を探るために青島会談に来たそうです。記事によると、新政府代表の汪兆銘と個別に会談をしているようです。

青島会談では、チベットの代表は参加していなかったようです。チベットは、当時、インドを植民地支配していたイギリスが、中国を諦めた後に、ターゲットとした国でした。この時点では、中国での新政府には参加出来なかったのかも知れません。