10ー日清戦争の意味
日清戦争は1894年8月に勃発した日本と清帝国の間の国際戦争です。日本はこの戦争で勝利し、中国から領土分割を受けています。清帝国は、この日清戦争より30年程前から、ヨーロッパ諸国にはアヘン戦争などでの敗退を続けており、多くの属国や支配地をイギリスやフランスに奪われていました。例えば、ミャンマー(ビルマ)、ベトナム、香港など、長期に渡り支配下にあった国々(属国)をヨーロッパ諸国に戦争の損害賠償として譲渡や長期借款させられています。日本は、中国からの侵略を想定すれば、朝鮮半島と台湾は絶対にヨーロッパ諸国の植民地にされてはいけない地域となります。清帝国でヨーロッパ諸国によるの属国の分割譲渡が進む中、国防上、特に朝鮮半島は必ず死守すべき領土だったといえます。
日本の江戸時代は1603年から始まりますが、1662年、清帝国が明王朝を滅ぼして政権に付いた後から、日本と清帝国の間では、外交使節団の来日など国家間での交流が継続していました。日本は海を隔てる地理的特性もあり、清帝国の属国になることはありませんでした。モンゴル民族の「元」と異なり、朝鮮半島から進出し紛争が発生することもなく、1894年の日清戦争までは、ほぼ200年以上に渡り国家間の交流関係がありました。
江戸時代、日本は外国に対しては鎖国をしていましたが、それは日本が他国と一切貿易をしなかった訳ではありません。また、他国の情報を一切入手していなかった訳でもありません。日本の本土南側に長崎に出島という対外貿易用の海港施設を儲け、中国を含め多くの国々と交易していました。こうした対外貿易特別地区は日本に数カ所設けられていました。その為、日本と清帝国の間では、ヨーロッパ諸国のアジア進出の動きに関して、情報の共有も当然あったといえます。双方にとって、ヨーロッパ諸国は脅威であり、アジアから排斥する動きについては、水面下での協力もあったと考えるのが自然でしょう。
日清戦争が起きた当時は、清帝国は既に国力が衰退していました。国内では統治下にあった漢民族の独立運動も活発化してました。この漢民族は清帝国からすれば「謀反者=敵側」ということになります。この段階で、清帝国が何らかの理由で再びイギリスとフランスと戦争になれば、民主独立革命を推進していた中国人(漢民族)は、当然の事ながら、イギリスやフランスなどヨーロッパ勢力に加勢するでしょう。その結果、中国国内で、北部の満州族を母体とする清帝国と、ヨーロッパが支援する南部の民主独立革命派との間で熾烈な内戦が勃発するのは必然の流れです。清帝国側も、穏健派の孫文も南北戦争は取り敢えず避けたいところです。
そこで、日本に中国情勢に関与させ、イギリスとフランスなどヨーロッパ諸国をけん制する役目を担わせ、同時に、清帝国側と民主独立革命派との間で平和的な政権移譲を達成すれば、日本の明治維新のごとく、熾烈な内乱を避けつつ民主化へ体制を切替られると考えたとしても不思議はありません。
日本を中国情勢に関与させるには、日本と清帝国が戦争に至ることが最も簡単です。その戦争で、日本が勝利すれば、イギリスやフランスとも対等な立場に立てます。戦争により、表面上は敵対関係を取れば、水面下での協力体制も欺けます。清帝国が日本に負ければ、日本に領土や鉄道網の権利は取られますが、少なくとも、中国で植民地政策を推進していたイギリスやフランスからは、中国の領土を守ることは出来ます。日清戦争の勃発は、直接の理由は、当時の朝鮮半島情勢ではありましたが、その後の清帝国との協力関係を考えれば、水面下では清帝国との密約があった上での戦争突入であった可能性は否定出来ません。
もしこの日清戦争が日本の介入による中国の領土保全の目的であったとすれば、この戦争には、日本はどうしても勝たなくてはなりません。清帝国が植民地化の危機に瀕する中、中国の南部での民主独立革命の動きは孫文以前からも続いていました。植民地化を目論むヨーロッパ諸国はこの民主独立の勢力を利用するのは明らかです。既に多くの領土がイギリス、フランスなどの国々に譲渡分割されていました。
日清戦争という形で、日本に中国へ進出させ、日本を勝利させれば、日本にヨーロッパ諸国の植民地化をけん制する役割を負わせることが可能です。日本はヨーロッパの植民地化危機を2度も乗り切った国です。中国は日本にとっては漢字や儒教など多くの文化思想を共通する兄弟国のような存在でもあり、アジアの植民地化危機という問題では、共通の利害があります。日本は清帝国とが協力体制を取ったのは当然です。
日清戦争により、日本は、清帝国に、李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させ、また、清帝国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させています。この領土譲渡の意味を見ても、日本が清帝国に対し「防波堤」を築いたといえます。清帝国への「防波堤」とは、言い換えれば、中国に進出したヨーロッパ諸国に対しての「防波堤」となるという事です。清帝国が植民地化した場合は、遼東半島から朝鮮半島経由で、日本に対し、支配下となった中国軍が移動してくるからです。同様に、台湾から北上するルートにも、中国軍の移動ルートになります。この時、李氏朝鮮を独立国家とすることにも、戦略的に非常に大きな意味がありました。李氏朝鮮内での清帝国からの民主独立革命を鎮静すること、また、日本からすれば「二重の防波堤」を築くことです。李氏朝鮮にとっても、独立国となっていれば、清帝国が植民地化された場合でも、日本と協力体制を取っていれば国家としては存続できます。
日清戦争は、清帝国にとっては日本を中国情勢に関与させ実施的に軍事支援関係を築く切っ掛け作りであり、日本にとってはヨーロッパ諸国からの防波堤確保の目的がありました。李氏朝鮮にとっても大きなメリットがありました。
清はイギリスとフランスに既に敗戦しています。敗戦国に敗戦すれば、直接の戦争は無くとも、日本もイギリスとフランスに敗戦したという意味が生じます。一方、日本が勝利すれば、イギリスともフランスとも国際社会において肩を並べることが出来ます。こうした理由から、日本は中国に進出し、清帝国に勝利する必要があったと言えます。
当時の日本と清帝国との間で「水面下での交渉」があったか、実際の記録などないでしょう。しかしながら、日本は1885年に新政府の内閣府が発足したばかりで、国家体制として極めて不安定です。日清戦争はその約10年後の1984年です。ごく普通に考えて、海外で戦争する余裕などありません。増してや、兵力で優に10数倍の差がある中国(清帝国)に勝てるわけはありません。一方、日本が勝利したのが歴史の史実です。勝てる理由の無い戦争に勝っているのですから、当然、裏があると考えるのが普通でしょう。どちらにしろ、日本は、日清戦争で勝利することで、結果、清帝国への政治干渉(領土分割問題への干渉)の口実を得ました。これだけでも、中国の植民地化を目論んでいたヨーロッパ諸国に対しては「待った」を掛ける理由になります。
清帝国の植民地化の危機については、反政府側の孫文も、清帝国の政府側の袁世凱も、状況は十分に理解していたはずです。反政府側と政府側で内戦を避けるため、政権移譲の手本として、日本の明治維新と大政奉還を中国で実現しようとしたと言えます。当時、孫文が日本人と革命活動に臨み、積極的に日本を訪れていたのも、こうした思惑からでしょう。そして、歴史としては、大政奉還のごとく、比較的「平和的な政権移譲」が一旦は行われるに至ったと言えます。清帝国が、皇帝一家が暗殺されることなく、民主政府(共和政府)へ移行は果たたことは快挙だったと言えます。