08ー中国漢民族の民主独立革命

08ー中国漢民族の民主独立革命

中国漢民族による民主革命の動きは、中国の最後の征服王朝である清帝国が、イギリスやフランスの植民地化政策の下、度重なる敗戦を経て弱体化するにつれ活発化して行きました。清帝国は北方異民族である満州族による征服王朝でした。こうした征服王朝では、政府の統治能力が弱くなるに伴い、中国中原以南を本拠地とする、被征服者であった漢民族(純粋な中国人)の独立の機運が強くなって行きました。

統治者である清帝国の人口は、非統治者である中国の漢民族より遥かに少なく少数派です。その結果、清帝国の軍隊での兵力の殆どは漢民族(支配下の異民族)で構成されることになります。当時、清帝国(中国)は二度に渡りイギリスとアヘン戦争を行っています。しかし、清帝国は、中国の「大国」にも関わらず易々とイギリスに負けています。その理由も、その後のフランスとの戦争に負けた理由も、漢民族(純粋な中国人)の独立の機運が背景にあったといえるでしょう。

歴史を振り返れば、清帝国のような少数派異民族による征服王朝下での支配体制では、国内に中央政府を倒そうとする動きが常に根強くあります。これをどう抑えるかが中央政府の政治手腕ですが、被支配層の漢民族が、清帝国とイギリスやフランスなど外国との戦争を、自分達の独立を図る気運だと考えていたとすれば、参戦はしたとしても、実際の戦闘では本気で闘わず、むしろ、イギリスやフランスが勝利するように動いたかも知れません。

孫文とイギリス

こうしたアヘン戦争の時代、1966年に、孫文は産声を上げます。後に、中国民主革命のリーダーとなった人物です。この孫文は、漢民族として、弱体化して行く清帝国から中国本土を取り戻し、新たな独立民主国家を樹立すべく立ち上がって行きました。

そのため、中国での民主革命の主体は、漢民族の地域である、中国の南部を流れる大河、揚子江の南側の地域から生まれていきました。一方、中国の北部を流れる黄河から以北の地域では、清帝国(満州族)を中心とする既存政府が執政を取っていました。中国南部は広大な農耕地帯が特徴です。一方、中国北部は満州、蒙古地域では、鉄鉱石や石油などが大量に採取出来ます。中国の歴史では、その王朝の殆どが北方異民族による征服王朝であった理由はここにあります。中国北方部では、鉄製の刀や燃料など戦闘に有利な天然資源に非常に恵まれています。兵器で劣勢な南部は、人口は多かったものの、結局は北部に敗北することになりました。

中国民主革命の時代も、全く同様の構図が出来上がっていたのです。そのため南部の孫文ら漢民族の独立革命派は、軍事兵器や軍事資金を外国に依存せざるを得ない状況が生まれました。孫文は当初は日本に支援を求めましたが、日本は鉄鋼や石油などの天然資源の供給元である清帝国=満州地域との関係から、南部の孫文らの支援はしませんでした。結果、孫文は、イギリスなどへ軍事協力を求めるようになって行きました。ここから、漢民族による独立革命が、中国の植民地化を目論むイギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国と結びつくことになったのです。

 

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