06ー日本の植民地化危機 (織田信長と坂本龍馬)
日本人は、日本もまたヨーロッパ諸国の植民地化の対象をされたことを殆ど知らないと思います。日本の歴史では、「ヨーロッパ諸国が貿易先を求めて遂に日本に到達した」と学習しています。しかし、この貿易とは植民地貿易であり、その前段階としては、植民地化がありました。
日本における欧州諸国による植民地化の危機は大きく2回です。第1回目は、1540年代から戦国時代に入る前から江戸時代の初期、主にポルトガルとスペインによってです。この時、日本側で利用されたのが織田信長でした。第2回目は、江戸時代末期1860年代から明治維新まで、主にイギリスとフランスによってです。日本側で利用されたのが坂本龍馬でした。
植民地政策の方法論はどちらも「基礎編4ー植民地化政策の5段階」で説明の通りです。第1回目は、植民地化政策の第4段階の初期、国内で激しい内乱が置き、反政府勢力が国政で実権を握るところまで行きました。日本史では「織田信長の天下統一」という「英雄伝」で知られています。
織田信長と第1次植民地化危機
日本は、他のアジア諸国と異なり、単純な直接支配の王政ではありません。天皇という「国家の中心的存在(王)=日本民族長」が全てを統治しつつ、その実権は、その時代の覇者「国家の政府機関遂行者」に委任されるという「間接的な支配構造」です。そのため、反政府勢力が台頭し政権を握っても、内乱収束後に、王政の完全崩壊にまでは至りません。あくまで政府の執務権限を掌握する「勢力が入れ替わる」だけだからです。ポルトガルやスペインは、この日本独特の政治構造を良く理解していなかったと思われます。この時も、まずはキリスト教の宣教師を派遣し、宗教思想の布教活動から始まっています。ポルトガルは、この時、日本国内での反乱分子として織田信長に目を付けたようです。
織田信長は日本の全国統一を進めたことで有名です。尾張の一大名が全国制覇を成し遂げたという夢物語は、日本史の逸話としても魅力的であり、時代劇の題材に何度も取り上げられています。しかしながら、普通に考えれば、尾張は全国統一に掛かる莫大な軍事資金を全て賄えるほど、国として豊かではありません。当時、織田信長は外国製(ポルトガル製)の火縄銃を日本で最初に「戦(いくさ)=戦争」に導入しています。普通に考えれば、火縄銃は相当に高価な最新兵器です。海のない美濃などと比べれば豊かでも、外国製の最新兵器を独占的に購入できる資金力などあるはずはありません。当然、ポルトガルから軍事資金と武力の提供支援を受けていたと言えるでしょう。
織田信長は、当時の戦国武将の中では年齢的にも若く、血気盛んで、指導者としてもカリスマ性のある人物だったようです。尾張の国は領土が海に面し、沖合に停泊した船舶上で密談出来る立地であり、天皇のいる京都に比較的近く、日本を東西に分断し大規模な内戦を起こすのに非常に適する地理条件がありました。ポルトガルは、キリスト教の宣教師により日本の各地の大名(国王)の情報を集めたでしょう。美濃の国の織田信長がターゲットに選ばれたという事です。
織田信長は、戦国時代と呼ばれるこの時代に、日本の平和のために国内を統一しようとした英雄と理解されています。しかし、角度を変えて見れば、織田信長が国内統一を目指した事で、戦国時代という深刻な内乱状態が生じたとも解釈できます。ヨーロッパの植民地化政策という観点からみれば、国内で内乱を起こすために、反政府勢力の中心になるよう利用された人物ともいえます。そして、これが実際の歴史の真相です。
織田信長が、アフリカやアジアの植民地化の実態など知る由もありません。最新兵器を提供する条件で、「天下統一」という夢を吹き込めば、意気揚々と話に乗って来るでしょう。国内での足掛かりとして利用されているとは、本人も思っていなかったでしょう。
ポルトガルとの接触
NHKの大河ドラマでも紹介されていましたが、織田信長は、若いころ、早朝、船で沖合に魚釣りに行っていたという逸話が残っているようです。一国の当主が、庶民に混じって朝から漁に出るような「変わり者」だったという逸話です。これは、漁に見せ掛けて、沖合に停泊したポルトガル船へ出向き、隠密裏に武器提供などの協議をしていたと考えるのが妥当でしょう。一国の当主が朝から漁師の真似事などする理由はありません。「うつけ」を装うのは、軍事決起の前に潰されない様、周囲を騙すためと考えれば、一種の戦略です。
尾張は、当時、海洋貿易などで栄えていたと言われます。しかし、所詮は小国です。海外製の火縄銃を大量に確保するなど資金的に不可能です。輸出元のポルトガルと余程の密約でも無い限り、美濃の周辺の大国が、対等な武器を準備も出来ず、次々と負けるという事がそもそも有得ないでしょう。ポルトガルとの間で、軍事兵器と軍事資金の独占提供の密約があったと考えるのが妥当でしょう。
明智光秀による暗殺
その後、織田信長は戦国時代を勝ち抜き、天下統一を達成しますが、直後に明智光秀の謀反により暗殺されています。これを世界史的な観点でみれば、この暗殺で織田信長が完全に消えた事で、ポルトガルは日本で天皇制(王制)を覆す「戦闘用人材」を失った事になります。要は、ポルトガルによる日本の本格的植民地化を大きくけん制する結果となったといえます。
日本史としては、明智光秀の謀反には多くの謎が残り、未だに様々な解釈がなされています。しかし、織田信長の暗殺にはなぜ天皇家に縁(ゆかり)のあった明智光秀が動いたのか、なぜ本能寺であっさり焼き討ちにあったのか、なぜ直後に豊臣秀吉がすぐ駆け付ける事が出来たのか、それ以前に、上述の通り、そもそも、なぜ尾張の単なる一大名が最新式の輸入武器である鉄砲を調達出来たのか、なぜキリスト教の布教活動を積極的に進めたのか、なぜ比叡山を焼き討ちを徹底的に行ったのか、これら全ての理由を「織田信長が日本の植民地化危機の中心人物であった」として見直せば、現在疑問とされている事のほぼ全てに「納得出来る答え」が見つかるでしょう。
豊臣秀吉以降の政策転換
織田信長の後を継いだとされる豊臣秀吉が、その他多くの有力候補を差し置いて、なぜ後継者となれたのか、主君であった織田信長の外交政策を一転し、キリスト教の宣教師を処刑するほど徹底的に宗教弾圧の方針を取ったのか、関ヶ原の戦いという日本の東西分裂の大内戦を経て、執政権を引き継いだ徳川家康が、なぜ首都の京都より遠く離れた関東平野に執政機関である幕府を開いたのか、その江戸幕府が、なぜキリスト教を徹底的に弾圧したのか、なぜ日本を鎖国する必要があったのか、これらの疑問も、当時、日本がヨーロッパ諸国による植民地化の危機という緊急事態に直面していたとすれば、自然と納得の行く回答が出て来るでしょう。
世界史的に見れば、日本の戦国時代は、ポルトガルの植民地政策によって意図的に画策された内乱であった可能性は否定出来ません。そして、日本の朝廷と徳川幕府は、この植民地化の脅威から日本を守るために、最終的に鎖国を断行し、国内の情報が外国人に漏れないよう、二度と内乱に利用される人物が現れないよう、大名制度を確立し、参勤交代を課し、財務面も含め徹底的な管理下に置き、戦国時代の再来が起きないよう徹底対策を行ったのです。
鎖国とキリスト教弾圧の真相
鎖国は、日本の植民地化を回避するために断行されました。鎖国により海外への国内情報の流出を阻止し、一方で、出島など海外貿易に特化した拠点を儲け、そこでアジア周辺国家の情報収集をしつつ、スペイン、オランダ、後にイギリス、フランスなどのアジアへの進出と植民地化の状況を把握しつつ、国家存続のために慎重な対応をしながら乗り切っていたといえます。
キリスト教の弾圧についても、欧州諸国が植民地化の第1段階として、宗教による民衆扇動を行い、それにキリスト教が利用されていたため、国内での布教を徹底的に禁止する必要がありました。「キリスト」の名の下に、一般大衆を反政府勢力として形成していたからです。日本史では、徳川家と徳川幕府の長年の功績は、現在も殆ど評価されていませんが、世界史的な観点で見れば、長年に渡り日本の守護神のような存在だったと言っても過言でないでしょう。また、当然、天皇が、民族長として、国家全体を守っていたことは言うまでも有りません。
私がここに記載した内容は、日本の歴史学者の皆様であれば、多分、既にご理解されていることと思います。中世ヨーロッパ諸国による世界的な植民地化の歴史については、実際にはユダヤ商人が主導したものの、歴史として語れば、ヨーロッパ各国を非難する内容になります。日本としても、ヨーロッパ諸国との友好関係を第一優先すれば、敢えて触れない方が良い内容でしょう。そのため、日本の歴史学者の皆様も、こうした真相については敢えて深く触れずに来たのでは思います。
しかしながら、日本がこの延長線上に中国での戦争で「冤罪」を着ている以上、私は、敢えて、社会に向かって情報発信致します。日本は過去の戦争を理由に、今の諸外国との友情関係を壊すような民族では決して無いと信じているからです。
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