日本軍の圧勝の真相13-徐州大会戦

日本軍の圧勝の真相13-徐州大会戦

徐州会戦は、蒋介石政府の首都だった南京攻略の後、日本軍と蒋介石軍と勝敗を決定的にする大きな戦闘でした。蒋介石政府軍は50万の兵力を配備していました。徐州では、昭和13年(1937年)5月13日に、日本軍の空軍が蒋介石政府軍の軍事機関を爆撃しています。1週間後の5月19日には、日本軍の圧勝し、徐州の占領が完了しました。

蒋介石政府軍は、その殆どが、かつて「反蒋介石戦争」で、蒋介石と戦争した軍閥で構成されていました。徐州会戦では、蒋介石政府軍の総司令官も、「反蒋介石戦争」を起こした李宋仁でした。他にも、張自忠劉峙湯恩伯孫連仲など、かつて「反蒋介石戦争」で蒋介石と戦争した人々が司令官となっていました。

日本軍と蒋介石政府軍は、水面下では、「反蒋介石」という点で利害が一致していました。各地での戦闘では、初めから「日本が圧勝」するシナリオで進められたのです。徐州会戦は、日本軍の進軍ルートや、蒋介石政府軍との軍事衝突のタイミングなど、当初より、非常に計画的に進められた戦争だったといえます。

昭和13年7月(1938年7月)発行 「歴史写真」
昭和13年5月(1938年5月)徐州市街に殺到する戦車隊

記事:

徐州は支那中央部に於ける十字街頭の観を成す交通上及び軍事上の最重要地で、蔣介石は、その防備に前後八年の日子を費し、五十萬の大兵を配して我に備へたが、さしもの堅城も皇軍無敵の猛攻撃に一たまりもなく潰滅、五月十九日の朝、城頭高く燦たる日章旗 が掲げられた

寫真は、同日我が岩 仲部隊の戰車が、 堂々城内に突進しついある有様。

 

上記の記事の通り、蒋介石政府軍は50万の兵力でした。日本軍は南下ルートと北上ルートとが合流しました。しかし日本軍の兵力は2万には達しなかったのではと思います。徐州攻略の際も、普通に戦えば、日本軍が潰滅して当然です。

開戦日は明記されていませんが、北上ルートの日本軍は、5月9日時点では、徐州の南西の蒙城にいました。徐州への進軍に2日ほど掛ったとすれば、13日の空軍の攻撃により開戦したかも知れません。1週間後には、日本軍が大勝利しました。

戦後の歴史では、日本軍がなぜ大勝利だった理由に、蒋介石政府軍が「寝返っていた」という発想はなかったようです。そのため、Wikipediaなど、日本軍が21万もの兵力を保有していたという「間違った情報」になったようです。

昭和13年7月(1938年7月)発行 「歴史写真」
昭和13年5月(1938年5月)隴海線を遮断す

記事:

支那大陸を東西に貫く大動脈隴海鐵道の遮断こそは、今事變史に於て特筆大書すべき皇軍の戦績である。

写真:

寫真の(右上) 五 月十四日、隴海線梁馬路橋の爆破作業 をなしつある我が〇〇部隊の勇士。
(左 上) 五月十八日徐州附近の隴海線上に於て、我軍が敵の軍用列車を占據して萬歳を叫ぶところ。
(右下)同じく鹵獲した軍用列車中より、多數の食料品及びガソリ ン等を取出しつある有様。
(左下)五月十四日、隴海鐵道梁馬路鐵橋爆破の壮観

隴海鉄道は、洛陽から東西に路線拡張が行われ、1934年に江蘇省の連雲港まで開通し、1935年には西安まで開通していました。徐州は途中の駅になります。西安は、蒋介石が、中国共産党の討伐で大軍を常駐させていた都市でした。イギリスやフランスからの軍事支援物資を連雲港で水揚げし、徐州を経由して、西安に運んでいたといえます。

蒋介石は、軍事物資(武器、兵器、燃料など)のほぼ全てを、イギリスやフランスなど外国から輸入していました。徐州付近の鉄橋を破壊すれば、江蘇省の連雲港からの輸送ルートを遮断出来ます。

攻撃としては、5月13日に敵の軍事機関や施設を空爆。翌日5月14日に敵の物資補給ルートを遮断。大軍であるほど、食料も含め支援物資も多く必要になります。長期戦になればなるほど、大軍の方が不利といえるでしょう。順当な攻撃といえます。

 

昭和13年7月(1938年7月)発行 「歴史写真」
昭和13年5月(1938年5月)徐州を目指して

記事:

蒋介石ラインの名を以て呼ばる金城鐵壁の徐 戰線に配備せられた敵の大軍は無慮五十萬、是を目指して敢然猛擊、一舉に殲滅せんとする皇軍無敵の戦闘精神である。

写真:

寫 真の(右上)宛ら唸る巨獸群、我が戦車隊が鼻面をへて徐州進撃の壮観
(左上) 徐州に向ってひた押しに進む我が〇〇部隊。
(右下)徐州の咽喉部たる〇〇山上より、總崩れの敵陣目蒐けて猛射を浴びす。 (左下)手に手に即製の歡迎旗を振りかざして、皇軍の徐州入りを出迎ふ支那土民群である

上記の記事でも、蒋介石政府軍は50万だったと記載されています。日本軍も2万は派兵したと思います。この戦闘は、蒋介石に中国を諦めさせる意味でも、大規模でなくてはなりませんでした。約5カ月前の南京攻略では、蒋介石政府軍は10万程度でした。蒋介石としては、次の大規模な戦闘では必ず勝利する自信があったといえます。

徐州は、中国共産党との戦争の拠点であった西安への鉄道補給ルートであり、また、北京から南京上海へ通じる鉄道ルートの交差する場所でした。中国中央部では「要所」といえる場所でした。徐州を日本軍に取られることは、蒋介石政府にとって「生命線」を切られるに等しかったといえます。

Wikipediaでは21万になっていますが、実際には2万程度かそれ以下であり、通常では、絶対に勝利出来ない状況でした。これを「大規模な戦闘」を行った上で、日本軍が「大圧勝」したことにする必要がありました。蒋介石軍の李宋仁は、基本的に、「戦闘放棄」で「退却」の連続だったようです。徐州会戦も「激戦」だったとされていますが、極めて少数の日本軍は、1週間で徐州を占領しました。実際には、戦闘は形式的だったでしょう。

写真拡大ー皇軍の徐州入りを出迎ふ支那の人々

徐州でも、日本軍は歓迎されたようです。当時の中国人にとっても、所詮、日本人は外国人です。本当に好きだったかは不明です。しかし、蒋介石政府の民衆への搾取や横暴非道は、恒常的な政府財源不足を考えれば、非常に深刻だったでしょう。日本軍が蒋介石政府軍を打倒すれば、植民地化の脅威からも逃れる事が出来たといえます。その状況を考えれば、徐州の人々が日本軍の到着で、日本の旗を振って出迎える気持ちになっていたのも理解出来る気がします。

 

昭和13年7月(1938年7月)発行 「歴史写真」
昭和13年5月(1938年5月)徐州は当に指呼の間

記事:

敵が難攻不落を誇る徐州城の攻略に當り、我軍は主として西南方面より猛攻撃を開始し、五月十七日には、敵が 天峻を以て恃む覇王山を奪取して早くもその死命を制し たのであつた。

写真:

寫真の(右上) 我が南進部隊、徐州の前線に向て弾薬輸送の有様。
(左上)五月十九日、徐州一番 乗の兩角部隊が、長蛇の陣を張って進撃するところ
(右 下)徐州の城壁より、残敵の動向を偵察す。
(左下)徐州城外覇王山上より、敗敵追撃の我が猛烈な機銃である

 

徐州会戦では、日本軍は北京からのルートと、南京からのルートと、南北から進軍しました。5月9日は、日本軍は蒙城を陥落。その後、南西方向から北上した日本軍は、5月17日には敵の要所であった覇王山を占拠したようです。その2日後の5月19日には、徐州へ到着しました。

前の頁に、「五月十九日の朝、城頭高く燦たる日章旗 が掲げられた」とありますので、徐州は5月19日に陥落し、日本軍による占領が完了しました。

徐州の陥落は、実質的に1日でした。普通に考えれば、一日で陥落など不可能です。この事実も、蒋介石政府軍が、初めから、日本側(満州政府や北部政府)に完全に寝返っていた証拠でしょう。寝返っていたというより、蒋介石を追放する為に、初めから内部離反を計画していたということです。