07ー日本の植民地化危機と坂本龍馬

07ー日本の植民地化危機と坂本龍馬

日本における欧州諸国による植民地化の危機は大きく2回です。第1回目は、1540年代から戦国時代に入る前から江戸時代の初期、主にポルトガルとスペインによってです。日本側で利用されたのが織田信長でした。第2回目は、江戸時代末期1860年代から明治維新まで、主にイギリスとフランスによってです。日本側で利用されたのが坂本龍馬でした。

植民地政策の方法論はどちらも「04植民地化政策の5段階」で説明の通りです。第2回目は、戦国時代ほどでは無いですが、国内では激しい内乱が置き、反政府勢力が国政で実権を握るところまで行きました。日本史では「坂本龍馬の英雄伝」で知られています。しかし、これは、世界史的に見れば、日本の植民地化危機の再到来だったといえます。

坂本龍馬と第2次植民地化危機

第2回目の植民地化危機は、江戸時代末期1860年代から明治維新までです。この時も第1回目とほぼ同様の事態が起こり、坂本龍馬が国内での内乱首謀者としてイギリスに利用されました。しかし、この時は、一部の地域で内乱が勃発したものの、植民地化政策の第3段階、深刻な内乱が全国規模に波及する直前で阻止されました。坂本龍馬は、日本を明治維新に導いた英雄として語られています。しかし、そのために、敵対する薩摩藩と長州藩を纏め、徳川幕府の転覆を目指した人物です。これを政府側から解釈すれば、国家テロリストだったといえるでしょう。

日本はこれを契機に、ヨーロッパ諸国の国家制度を習い、結果的に、民主政治体制への移行は実現しました。しかし、坂本龍馬の活動の当初は、政府実権を持つ徳川幕府の反対勢力として、民主主義ではなく、天皇家による直接統治の復活である「王政復古」を唱えました。勿論、天皇家の下で民主国家を目指すという名目だったでしょうが、「尊王攘夷」という発想自体が本来の民主政治とは矛盾する内容です。日本の植民地化政策を進めていたイギリスやフランスからすれば、単純に民主化を唱えても、徳川家との長年の主従関係や儒教的な倫理観から、日本人は簡単には動かないと理解していたでしょう。

坂本龍馬による内乱の企画

そこで、第1段階として、まずは天皇家を担ぎ出し「尊王攘夷」を唱え、天皇家に執政権を返上する名目で内紛を起こさせ、既存政権である徳川幕府を倒そうとしました。そして、徳川幕府が終焉後、第2段階として、今度は、真の民主化を名目に「天皇制」を消滅させようと企てたのです。その観点で見れば、本来は矛盾する「尊王攘夷」と「民主政治」が、坂本龍馬の中では国家の民主化への「一つの大儀」となったとしても不思議は無いかも知れません。

実際に、坂本龍馬は、その方法論の通りに、国内の対立する少数異民族国家同士(薩摩と長州)に同盟を結ばせ、徳川幕府に宣戦布告させ、日本国内で内乱を企てました。徳川幕府は、前回の戦国時代の第1次植民地化危機の際、最終的な収束に当たった当事者です。植民地化阻止の防衛策として、鎖国制度を断行した政府です。開幕当初よりアジアの情勢や危機には敏感に反応していたでしょう。常にアジアの周辺諸国の状況や情報については出島などを通じて十分に入手し、国家の安全と危機管理を図って動いていたと言えます。

そのため、江戸時代末期、徳川幕府が、「安政の大獄」により、開国派を潰し残忍無残な処刑を断行したのも、かつて戦国時代を繰り返さないために、日本の植民地化を進める「海外勢力との接点」を徹底的に潰す必要があったといえます。一方、坂本龍馬などは、インドやアジアの諸国でヨーロッパ諸国の植民地化の実態など知る由もありません。イギリスの支配下に置かれた民衆に何が起きていたかなど把握する余地も一切ありません。イギリス人やフランス人から夢のような民主政治の話を聞き、対外貿易で日本が栄えることを夢見て「協力者」となっていったのでしょう。坂本龍馬は、当然、日本の植民地化危機については全く感知していなかったといえます。心から日本の将来の為と信じていたはずです。

しかし、当時の日本は、そうした「自由平等社会という夢物語」で動いてしまった一派の為に、もう少しで国内に「深刻な内紛」が勃発するところでした。この内紛を阻止するため、天皇家と徳川幕府が水面下で動き、特に徳川慶喜の大英断により、イギリスやフランスに付け込まれる隙を一切与えないようなタイミングで、一気に政権を朝廷(皇室)へ返還したのです。この時、イギリスは反政府派である薩摩長州に軍事兵器と軍事資金を支援し、フランスは徳川幕府側で軍事協力を図っていました。イギリスもフランスもこの時は日本における天皇家の間接統治制度については理解していたでしょう。反政府派が徳川既存政府を倒した後は、天皇家を相手に内紛を起こさせ、その際には、フランスが天皇家に軍事支援をする目論見であったと考えます。

日本の天皇制という防波堤

通常のアフリカ・アジア諸国であれば、これで十分に植民地化出来たと思います。しかし、日本は、天皇を民族の長とし、国家の中心として、永年続いて来た「日本民族の国家」です。それぞれの国(現在の県)は違ったとしても、「民族の長」に対する「絶対的な絆」と「信頼関係」があります。もし仮に執政権を取った人物が、天皇家を攻撃するという事態になれば、日本民族全員がその人物を潰しに掛かるでしょう。この感覚は、当時のイギリス、フランス、その他のヨーロッパ諸国の人々には完全に未知であったと思います。ヨーロッパ諸国では、王朝は常に比較的短期に崩壊しており、当時は殆どの国で既に王制も崩壊していました。民主革命では、国王は「憎むべき存在」でありました。そのため、民主革命を起こせれば、天皇家を潰せると考えていたのでしょう。

ところが、政府派、反政府派、それぞれに対立しつつ、各地域の指導者(大名)達は、実際には、隠密裏に「民族の長」である天皇家の下で動いていたといえます。戦国時代のような内紛状態を回避する目的であれば、反政府派の主張通り、天皇家に執政権を返上すれば良いだけです。しかしながら、これをイギリスとフランスに悟られれば、徳川幕府側で天皇家に執政権を返上することに異を唱える一派が浮上し、大名(国王)同士での戦争が勃発し収拾が付かなくなります。そこで、天皇家と徳川幕府で隠密裏に話を進め、結果、徳川派(政府派)、反徳川派(反政府派)、どちらの勢力にも内戦を準備する時間的余裕も与えず、内戦の大儀(戦争理由)も奪う事に成功しました。これが大政奉還の真相です。もちろん、その後も、これに反発する勢力が、各所で小規模な内乱を起こし、戦闘は起きましたが、これらは政権交代後は、執政権を握った「新政府によって鎮圧」されています。

大政奉還と植民地危機

大政奉還は、徳川幕府はそれまでの統治権全てを放棄することになりましたが、外国に植民地化されるという「国家存亡の危機」を考えれば、「致し方ない決断」だったといえます。徳川慶喜は将軍職も辞し、江戸を離れ、全国の諸侯に戦闘意志が全く無い事を示したため、徳川派も内戦に参加する大義名分を失いました。一方、反徳川派は要望通り天皇家を中心とする国家体制作りが可能になり、こちらも同様に内戦の大儀名分を失う事になりました。日本国内で大きな内乱を起こさないこと、これが「大政奉還」の真の目的といえます。

国家の一大変革であり、「大勢(たいせい)=植民地危機」を知らない一部の藩が決起はしたものの、国内全体での、「深刻な長期の内戦状態」は回避出来たと言えます。徳川慶喜という人物は、明智光秀以上に正しく理解されていないと思いますが、この時期の意味不明と言われる行動の理由や動機は全てこうした経緯からだと言えるでしょう。私は、「滅私の心」に基づいた「英断」であったと理解しています。これを受け、天皇家も長年の都である京都より、徳川幕府消滅後の江戸を守るために、敢えて、京都から江戸へ下る決断をされたと考えています。

大政奉還の原因を作った九州地域の国々とも「物理的距離を取る」目的があったかも知れません。反天皇派がヨーロッパ諸国と手を結ぶ事態を想定すれば、首都の防御機能としては、京都より江戸の方が安全とも言えます。箱根や富士などの山脈に囲まれ、江戸湾(東京湾)は陸地が浅瀬を取り囲んだ形状です。万が一の外国からの攻撃にも立地条件は良いでしょう。

天皇による間接的な統治体制の崩壊

明治維新期の「第2次植民地化危機」は、一時は、かなり緊迫した状況まで進んでいたものの、国内での大きな内乱には至らず、天皇家を中心とした政治体制を維持したまま、日本の経済への致命的な打撃も回避し、ほぼ無傷の状態で新たな執政体制として民主化を果たし、植民地化の危機を逃れました。日本は、その後も、イギリスともフランスとも特に問題なく友好関係は維持していましたが、明治維新以降は、政治や医療や文化面で、ドイツとの関係を深めています。どうしてドイツであったかは、当然、イギリスとフランスをけん制する目的からです。

しかしながら、この明治維新によって、それまで続いていた天皇家による間接的な統治体制が崩れてしまったのは事実です。反徳川派として政治の表舞台に立った人々は、所詮は地方出身の下級武士や庶民が中心であり、国家統治については、ほぼ未経験者に近い人材だったため、ヨーロッパ諸国から学んだものが全て正しいと信じ込んでいたかも知れません。また、天皇家による間接統治体制ではなく、天皇が直接政府を動かすようになってしまいました。

この直接政治体制が、本来は「戦争を最後に止める機能」であった天皇家が本来の社会的機能を果たせない状況を作りました。執政者の起こした戦争を、第3者の全体統治者(民族長)として停止させる役割を担って来ました。これが、後に戦争が起きた際に、あの惨状に至るまで執政政府の暴走を止められなかった理由です。明治以降も、間接統治の体制を取っていれば、天皇家が執政政府を更迭することで、他国に平和交渉し、結果的に戦争を止めるという大義名分が存在したわけです。しかし天皇制の直接統治という形を取らざるを得なかった事から、戦争の勅旨を自ら発する事になってしまい、「仲裁」乃至は「戦闘終結」を管理する監視機能を国として失ってしまったと言えるでしょう。

勿論、あの時代、徳川家という強力なリーダーを失った後に、国家を引き継げる存在は居なかったでしょうし、天皇家が直接統治する以外に、選択の余地は無かったかも知れません。そうして突き進んだ結果、最終的には、日本は中国の植民地化は阻止は出来たとも言えます。しかし、日本が負った「犠牲」は甚大かつ致命的なものでした。こうした側面を考えれば、明治維新の歴史的な解釈については、「文明開化」という明るい面だけではなく、その後への影響も含めて「再検討されるべき」でしょう。

私は、天皇家による間接的な統治が、その時代その時代に民衆の中で勢力を得た者が政府を運営することを可能にしており、日本は、実質的には常に「共和的」であり「民主的」であったと考えています。それが日本が一つの王朝の下で一国として続いて来た理由であり、明治維新の体制は、政治体制的にはある意味「後退」であったと考えます。ただ、こうした経緯を経て、日本は第2回目の植民地化の危機を脱するに至りました。緊迫する事態の中、致し方なかったのかも知れません。

日本史の歴史解釈の間違いについて

私は上記の通り、日本の歴史は、戦国時代の歴史解釈から大いに間違って理解されていると考えています。そのため、その後の歴史の解釈も辻褄が合わないことになっているのです。これも太平洋戦争で日本が全面的に戦争の責任を負わされることになった際、イギリスの支援を受けて開国を主導した坂本龍馬が植民地化に利用されたテロリストであっては、中国の植民地化を推進していた戦勝国側にむしろ大きな戦争責任があることになってしまいます。そのため、辻褄(つじつま)合わせに歴史が書き換えられたのではないかと思います。織田信長や坂本龍馬も、本来は「反政府テロリスト」であったにも関わらず、歴史解釈としては「国を変えた英雄」とする必要があったといえます。しかし、世界史の正しい観点で日本史を見直せば、国際的反政府テロリストとして日本の植民地化に利用された人物であるとするのが真相でしょう。

これが、織田信長が「家臣に焼き討ち」という陰惨な方法で暗殺された理由であり、坂本龍馬が徳川側と天皇側の両方から命を狙われ、最後は、これ以上は無い程の「惨殺」という形で殺された理由です。両者とも、日本の植民地化を目論む「他国との接点を完全に断ち切る」ためには、確実に息の根を止める必要があったといえます。

中国の動向と植民地化危機の継続

日本は、坂本龍馬の暗殺を経て、大政奉還に至り、明治維新を成功させました。これにより、日本は中国に先駆けて、植民地化の危機を脱し、国内の政治体制の民主化に成功します。しかし、中国では植民地化の危機は解決の糸口を得る事もなく引き続いていました。これは、中国だけの問題ではなく、中国の植民地化の危機が消滅しない以上、日本も引き続きその危機が継続していたこと意味します。そのため、明治以降も、中国同様、植民地化の危機からの脱却は常に目前に迫った課題となっていたと言えます。

当時は、既にインドから中国にいたる広大な領地はヨーロッパ諸国の植民地と化し、または、その過程にありました。これが、日本が中国へわざわざ軍隊を送ってまで蒋介石と戦った根本の理由であり、そして、戦っていた相手は中国ではなく、実質的にはイギリスであった理由です。蒋介石はイギリス側の窓口役であり、中国における坂本龍馬でした。そのため、実質的には、「日中戦争」ではなく、「日蒋戦争」であり、「日英戦争」が起きていたのです。

ここでは日本の植民地化危機について述べましたが、なぜ日中戦争が起きたのかも、なぜ日本人が中国へ進出したのかも、正しい理解へ至るには、絶対に把握しなくてはならない歴史の流れと思います。

 

 

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