内蒙古独立の真相3- 綏遠事件(綏遠事変)
綏遠地域は、内蒙古東部が満州国に参入する前は、横に長い内蒙古全域の「中央部」に位置しており、古来からの「要所」であった場所です。蒙古と言えば、チンギス・ハーンで有名ですが、元の滅亡後は、本来の母国領域へ戻り、その後も王制が続いていました。明朝、清朝では、属国となっていたといえます。清朝後は、北部の北京政府の統治下となり、「北伐」で北京政府が消滅した後は、蒋介石の南部政府の統治下に置かれました。
綏遠は内蒙古全体からすれば、領土の中央であり、ここには「百霊廟」という内蒙古王国の行政の中心ともいえる場所がありました。当時は、内蒙古は「徳王」が国王として執政に当たっており、ここが、外蒙古の影響で「共産主義化」することは、古来よりの王族としては絶対に阻止すべき事態だったといえます。
綏遠事件(綏遠事変)は、当時の「歴史写真」の記事によると、共産化を躍らされる(目指す)「綏遠軍」を鎮圧するために、徳王率いる内蒙古軍が南下し、発生した「軍事衝突」です。徳王の「内蒙古軍」が当初は有利に展開したようですが、「綏遠軍」は蒋介石政府の中央軍(山西軍)に支援を求めたため、両者の間で、一進一退の戦闘状況が続いたようです。「百霊廟」は「綏遠軍に占領された」ものの、進軍後程なく「徳王が奪回」を果たし、それをまた「綏遠軍が奪回」したとの写真と記事が掲載されています。
現在の一般理解の様に、単純に、日本軍が内蒙古軍を支援した訳ではありませんし、「大敗」でもありませんでした。一進一退の後、翌年は日本軍の支援を得て、最終的には、「内蒙古軍が勝利」しています。
昭和12年1月(1937年1月)発行「歴史写真」から
昭和11年11月(1936年11月)内蒙古の綏遠侵入
記事:
赤化外蒙の魔手に躍らされつつある綏遠軍を膺懲せんとする內蒙軍は、 十一月十三日その前進根據地たる商都を進發し、 軍を二手に分ち、騎兵部隊を根幹とする一隊は一路南下して綏遠省興和方面に向 ひ、他の有力なる一隊は、砲兵隊と共に西南方陶林に向ひ夫々進擊を開始し、破竹の勢いを以て隨所 に敵を破りつつ前進を續けたが、 綾遠軍も支那中央軍の援助に及んで次第に頽勢を挽回し、 要地百靈廟を奪還して、士氣大に昻まり、今や一進一退の形勢を持續しつつある。
然るに、支那側は、此の內蒙古軍の戦闘行爲を日本側の使嗾に依るものと見做し、折柄進捗中の日支交渉を不立に導かんとする態度に出で、爲めに日支間の事態は一層悪化するに至ったのである。
写真:
寫眞前頁の右 上は最近親ら內蒙軍 た指揮して百靈廟の奪回に馳せ向ひたりと傳へらるる德王。 左上は飛行機上望みたる被遠省陰山 山脈。右下は百靈廟における内蒙古軍隊。左下は綏遠大同驛(駅)の光景である。
注)膺懲(ようちょう):征伐してこらしめること / 使嗾(しそう):そそのかすこと、けしかけ
内蒙古もまた鉄鉱など「天然資源」に恵まれた土地です。上の写真の左下は、大同駅ですが、内蒙古から北京への物資輸送の鉄道網が延びていたいことが解ります。満州国の独立で、満州と内蒙古を断念した蒋介石が、内蒙古西域の死守を狙うのは当然の流れだったでしょう。
左ページ
写真:又、後の頁の右上は内蒙政府の全景を示せるもので住居の構造は極めて原始的なものである。左上は綏遠なる中央鼔樓の古き建物。下段の右は綏遠軍迫撃砲の活躍振り。同中は、武川城内市街の風景。又、左は百靈廟に於ける最近の徳王である。
注)鼔樓(ころう):東アジアの宗教施設で、敷地内などに建てられる「太鼓」を設置する建物
百霊廟の位置
上記の地図の「百霊廟」の左上にある白い線から上が「外蒙古」です。
当時、「外蒙古」は既に「赤化=共産主義化」していました。内蒙古王の徳王は、商都という都市に居ました。商都は内蒙古東部にある都市です。満州国は、内蒙古の「東部」が参入しましたが、内蒙古には古来より王族がいます。当然、この「徳王」など内蒙古王家の同意が無くては成立しません。満州国建国後は、徳王は、国境を接する東側の都市である商都を本拠地としていたようです。ところが、綏遠軍が「共産主義化」し「百霊廟」で軍事決起したため、徳王が商都より内蒙古軍を率いて出兵しました。
一方、この時、「綏遠軍が共産主義化を目指した」かは疑問です。なぜなら、綏遠軍は、蒋介石政府内の軍隊でした。蒋介石政府は、中国共産党とは敵対関係でした。「綏遠軍」が「赤化」に躍らされたというより、満州国側に付く「徳王」に反発する勢力として「軍事クーデター」を起こしたというのが本当のところではないでしょうか?また、これを理由に、「満州事変」と同じような展開を再現したといえます。