内蒙古独立の真相1- 内蒙古の西部地域の情勢
内蒙古は、中国の北側に東西に横長に広がった領域の「国」です。清帝国時代は、清帝国の領土でした。満州国の建国の際は、この内蒙古の領土の内、満州地域と接する「東部の蒙古族」は、満州国建国の際に満州民族と共に蒋介石政府からは分離独立を果たしました。これは実質的には清王朝統治下へ戻った様なイメージですが、内蒙古東部の自治を確保した上での統合であったと考えます。そのため、満州帝国としています。満州国は、満州民族の国と内蒙古族の国の連合国家だからです。
日露戦争以降の周辺地域への日本の経済進出
日本は1904年の日露戦争で勝利し、南満州鉄道の権益をロシアより譲渡されて以来、鉄道網や駅などの整備を行い、後に満州国として独立する地域での、天然資源産業の発展に多大なる貢献をして来ました。日本に天然資源産業の採掘権や開発権はありませんので、こちらは当初から清帝国、帝国滅亡後は北部の北京政府が管轄しており、日本とは「役割分担」した上で、経済発展協力体制を築いていました。清帝国が、帝国末期から日本に中国進出を許したのは、イギリスとの二度のアヘン戦争での大敗、フランスとのアロー戦争での大敗など、最悪の場合は、母国領土へ戻る準備を進めるためだったかも知れません。ロシアにしても、イギリスとフランスの北上を抑えるには、日本という「防御壁」が利用できれば極東での軍事衝突が抑えられます。日清戦争、日露戦争に、日本が勝利出来たのは、こうした背景があったからです。
中国の歴史では、北方系異民族が中国本土を支配下に置く「征服王朝」が殆どでしたが、北方の食糧生産に向かない土地の民族が、なぜ広大な南部領域を統治下に置けたのかは、北部には、鉄鋼や石油など豊富な天然資源に恵まれており、兵器力で非常に勝っていたことが挙げられます。内蒙古、外蒙古、ウイグル、チベット、ロシアのシベリア東部も、そうした天然資源が産出する場所です。当然、内蒙古の東部に限らず、内蒙古の西部地域においても、日本との経済協力を望み、日本の味方であったことは言うまでもありません。
中国の近代史では、蒙古やウイグルなど周辺国家の動静については、殆ど知られていませんが、中国の植民地化政策では、当然、こうした周辺国家も含んでの「植民地統治」を目指していました。満州国建国後、北支での自治を求める声から1935年には「北支事件」が起こり、その時に、蒋介石は四川省の「成都」にいました。これも、中国東北部の独立により、その地域の天然資源については一旦見切りを付けざるを得ず、蒋介石の支援国であるイギリスは、チベットへの進出を本格化させたため、中国からチベットへの物資兵士輸送ルートの中国側の玄関である「成都」で指揮を取っていたのでしょう。日本は、当時、イギリスとの間で、満州国の国際承認の条件として、チベット(西蔵)への進出へは干渉しないことを通達しています。これも、満州国の独立による影響です。
こうした状況下、満州国に隣接する内蒙古の西部領域で分離独立の軍事クーデターが起きれば、蒋介石政府軍は鎮静に十分な対応は厳しかったといえます。日本がここまで先を読んでいたかは不明ですが、日本と清帝国が協力し「孫氏兵法」さながらに、「戦わずして勝つ」を実践していたとすれば、1927年の「北伐」から約10年近くを掛けて、着々と、蒋介石を追い込んでいたといえるでしょう。
綏遠省の場所 (Wikipediaより)
当時、内蒙古の北側に、ロシア(ソビエト)と国境を接する外蒙古については、既に共産主義化していました。ロシア(ソビエト)としては、南側に共産勢力の拡大を目論むのは当然です。内蒙古の綏遠地域が、共産主義化して行きました。これに対して、内蒙古の王である徳王が軍事行動を起こすことになりました。
一方、当時は、まだ、この地域は蒋介石政府の影響下ではあったため、共産主義撲滅を掲げる蒋介石政府も軍事進出し、事態が拡大しました。
蒋介石政府は、イギリスの傀儡政府である実態、政府として極めて好戦的な姿勢、統治下での治安の悪化など、中央政府として致命的な問題がありました。それ以上に、対外的な軍事借款債務は「巨額」となっており、西部の内蒙古民族にとって、これだけの悪条件を押してまで、蒋介石政府の統治下に居るメリットは全くありません。
内蒙古の東側には、既に物資運送のための鉄道網が延びており、日本という天然資源の大量消費国家が存在し、満州国が分離独立をしている状況でした。こうした状況を考えれば、残された東部の内蒙古地域としては、当然、満州国側に自治政府として合流することを選択したでしょう。また、それを想定しての満州帝国の成立だったといえます。