満州事変の真相6ー大凌河鉄橋警備
日本軍が奉天を占領し、蒋介石軍(東北軍)を追い出し、奉天の治安維持が順調に回復したのを見届けてから、張学良は自ら奉天を退城し、少し南の錦州という都市へ軍事拠点の移動を行っています。地理的に見ると、北京のある中国北部と、奉天のある中国東北部との間には、「万里の長城」と呼ばれる有名な「軍事防壁」があり、錦州という都市は「万里の長城」の最東端にある「山海関」に通じる場所です。列車で中国側(北京)へ移動するにも、非常に都合の良い場所ということです。
昭和6年12月(1931年12月)発行「歴史写真」から
昭和6年10月(1931年10月)満州事変特集写真ー大凌河鉄橋警備
記事:
滿洲事變勃發の當時、張學良麾下の支那軍は關內に出動しみたる約十一萬を除き、滿洲各地に約二十二萬の太兵と砲約二百十六門あり、 その內、奉天附近には約一萬五千、砲約四十門 の兵力を有していた。然るに是に對する我が在滿部隊は合計僅かに一萬四百人に過ぎず、 この兵隊を以てして二十二萬の支那軍を押へる苦心は實に想像以上のものがあり、單に關東州防備する外、延長千百キロに亘る南満州鉄道の警備に人するその責任の重大さは正に言語に絶するものがあった。
写真:
寫眞は張學良が錦州にその軍事的根據地を設置せんと企てたる際、錦州付近の北寧大凌河鉄橋を警備しつつある我軍の兵士である。
注)麾下(きか):
張学良の移動(引越し)では、日本軍が張学良の鉄道移動の警備を行っています。実際には「味方」であるので当然といえますが、現在の歴史理解のまま、普通に記事を見ると「日本軍が不可解な行動」に出ていると感じるかも知れません。ですが、張学良の父親である張作霖が北京を退城した際、列車爆破にて暗殺された経緯があります。当時は予測不可能だったとはいえ、日本軍が警備を徹底していれば、張作霖が列車爆殺も回避出来たかも知れません。また、張作霖が暗殺されなければ、もっと早くに「満州国の独立」が出来たかも知れません。
暗殺事件の当時は、蒋介石軍の本軍(南軍)が北京入城の前であり「山海関」を超えておらず、東北部の満州奉天までは達していませんでした。そのタイミングで、満州国が独立宣言を果たせれば、その後の「中原大戦=第二次支那動乱」も回避出来たといえます。張作霖が、北京を無血開城し、奉天に引揚げたのは、むしろ、これが理由だったといえます。しかし、日本が、蒋介石の「卑劣さ」に理解が足らず、十分な警戒を怠ったため、悲劇となってしまいました。結果、その後、蒋介石がロシアへの進出を目論み、そこから「世界恐慌」を引き起こす要因さえ作ってしまったといえます。
そのため、同じ過ちを繰り返さないよう、日本軍は、張学良の列車移動には細心の注意を払ったといえます。この時は、上記写真の通り、爆弾の仕掛けやすい鉄橋などを徹底警備したようです。張作霖の爆殺事件では爆弾は奉天付近の鉄橋に仕掛けられていました。また、張学良も、軍拠点を移動する目的は、奉天から蒋介石軍を一掃することですので、長距離の移動は避け、山海関の手前、隣の都市くらいまでに留めたのではないでしょうか。
尚、上記の記事でも、張学良が率いていた支那軍(満州軍)は11万+22万=33万の兵力を誇っていました。一方、日本軍は、総勢1万400人です。優に33倍の兵力差がありました。普通に考えれば、これだけの兵力差で「勝てるわけが無い」のです。それが「勝った(圧勝)」ということは、「トリック=戦略」があったという証拠です。
昭和6年12月(1931年12月)発行「歴史写真」から
昭和6年10月(1931年10月)満州事変特集写真ー張学良の引越荷物
記事:
奉天の張学良は夙に才人の名を壇ままにしているが弱冠未だ天下に臨むの器でない。その父張作霖匹夫より起って遂に民国大元帥の栄位に上った余光を蒙り、彼れ張学良も亦民國の副司令といふ重職に在り、遼寧省の頭領として奉天に君臨してはいるものの、自らの力を揣らずして徒に空中樓閣を描き事每に我れを侮蔑するの態度に出でたるが爲、さしも隱忍自重の我軍部も遂に堪忍袋の緒を切って電光石火的の一大飛躍を試み、文字通り鎧袖一觸、忽5彼れが麾下二十二萬の大軍を雲散霧消せしめたのである。
写真:
寫真は公明正大奇くも人道に悖らざる我軍が張学良の希望に依り、その奉天の私邸に於て彼れが残せる荷物を整理し、北平に宛て轉送すべく今や荷造りに従事しつつある光景である。
匹夫(ひっぷ): / 鎧袖一觸(がいしょういっしょく):ちょっと触れただけで相手を負かす意味 /
麾:さしまねく / 悖らざる(もとらざる):道理に反しない。
この記事から、張学良が、錦州に軍拠点を移した後、北平(北京)に移動したことが伺えます。その後、歴史写真12月号の「世界日誌」には、
10月29日 張学良氏は本日午後一時より北平(北京)より飛行機に搭じて南京に到着し、直ちに蒋介石氏をその私邸に訪問、満州事変の対策に関し協議を重ねたり。
張学良と日本の戦略
学良は、蒋介石政府の傘下に入っていますので、「満州事変の対策」を協議するため、南京の蒋介石を訪れるのは当然の流れです。張学良が南京へ直接出向いて蒋介石の指示を仰ぐことは、蒋介石の信用を得るためには必須だったでしょう。直接出向いて、日本からの奉天奪回は張学良が自ら指揮を執ると主張し、蒋介石が承認すれば、後は、張学良の好きなように軍事采配が可能です。日本軍に満州に進出させ、東北軍との軍事衝突で勝利させて、一旦、日本の占領下に置きます。日本軍は非常に兵力が少ないため、短時間では満州地域全土を占領下にはおけません。しかしながら、日本軍が占領下に置けば、各都市に分散していた蒋介石政府の正規軍(南軍)を満州地域から完全に排斥していくことが可能です。
この時は、奉天軍も蒋介石軍ですし、南軍も蒋介石軍です。南軍だけを排斥出来れば良いのですが、張学良は蒋介石と同盟関係にありますので、直接的には対立は出来ません。対立すれば、再び、支那動乱の再発になります。そのため、第3者として日本が「追い出し役」を遣ったのです。
負け続ける張学良
張学良が蒋介石の信用を得て、後は、負け続ければ、必然的に、日本が満州全土を占領下に置くことになります。戦闘は、一部の蒋介石政府正規軍とは戦闘が起きたといえますが、殆どは満州軍です。日本が勝利した後は、蒋介石軍の兵士は日本の捕虜にし、そのまま満州国軍に再編成して行ったのです。蒋介石政府の東北軍は、本来は、満州民族軍です。満洲国独立後は、貴重な国軍兵士ですので、無駄な戦闘で不要な死傷者を出すことなく、ほぼ全員が一旦日本軍の捕虜です。
表向きは、「激戦」であると大々的に宣伝していたので、後々、日本が自国の利益のために「中国侵略」したかの様に誤解される理由となりました。しかし、20倍もの兵力をもつ東北軍に、日本軍が勝てるわけはないですから、当然、双方に協力して、満州地域の分離独立を目指して動いていたのです。
冬場の戦闘時期
満州では、日本軍と蒋介石政府の東北軍(満州軍)との間で、「激戦」は繰り広げられましたが、満州事変を9月にしたことで、戦闘時期が冬場の極寒期になり、結果的に、両軍とも大きな戦闘行動は取れず、必然的に人的被害を抑える結果になりました。また、人々があまり外へ出ない時期でもあるため、「激戦」と大宣伝された戦闘が実際には「無かった」に等しい真相については、目撃者も出ません。そもそも東北軍は基本的に満州民族や清朝の臣民が中心で構成されており、南部の漢民族の蒋介石の為に戦う必要などありません。東北軍の兵士の方が、満州国の独立建国を切望していた側です。
当然、戦闘はあくまでも形式的であり、戦闘したという既成事実と、日本軍が勝利したという事実を残せば良い程度であったといえます。対外的にも、数か月に及ぶ苦しい戦闘の末、日本が蒋介石側の東北軍を満州東北地域から完全排除したことにすれば、張学良の面子も何とか保てます。そうして、日本軍を利用して、蒋介石政府の正規軍のみを満州地域から実質排除したのです。
ハルビン占拠と独立宣言
翌年1932年2月には日本軍が満州北部のハルビンを占拠するに至ります。これは、日本軍が、蒋介石政府軍を、満州東北の全地域から排除したことを意味したといえます。そこで、その直後、1932年3月1日付、満州国は独立建国を宣言するに至ったのです。
満州事変は、再度の南北政府戦争を回避し、結果、人的経済的被害を最小限に抑えつつ、満州国を無傷で建国されるための「非常に巧妙な戦略」だったといえます。そのため、前年9月から翌年2月末までの約半年に渡り、日本、満州側政府、および張学良が、水面下で協力体制を取り遂行して来た計画であったといえます。最も「要(かなめ)」となった人物が張学良であり、蒋介石を騙す役を非常に上手く演じた立役者だったといえるでしょう。