満州事変の真相4ー柳條溝の満鉄爆破計画事件
柳條溝の満鉄爆破計画事件は満州事変の発端となった事件です。張学良が率いていた奉天軍が蒋介石軍になったため、爆破を企てたのは支那軍(蒋介石軍)になります。ですが実質は奉天軍(満州軍)ですので、日本にとっては実質的に「味方」です。満州鉄道は爆破されていません。これは爆破の計画であり、爆破前に発覚しています。首謀者は、張学良の配下の王以哲という人物です。
以下の記事は、当時「歴史写真」で報道された内容です。
昭和6年11月(1931年9月)発行「歴史写真」から
昭和6年9月(1931年9月)満州事変特集号-満州事変写真 其の四
記事:
九月十八日午後十時三十分頃奉天北大営所属の支邦兵約三百名が柳條溝の 満鉄線路の爆破を企てつつあつたのを我が鉄道守備隊が発見したるところ、支那側より発砲せる為め是に応戦、両軍の間に衝突の不幸を見るに至つたもので、我軍は疾風迅雷の如き早業を以て、一挙に北大営を占領すると共に、軍の一部は奉天內城に進擊し、激戦数刻にして忽ち是をも攻略し、更に東大営を奪ひ、兵工廠
び飛行隊を奪取し、茲に奉天城を中心とする東北軍を全滅せしむるに至った。
写真:
写真の右上は奉天戦に於て我軍の鹵獲した支那軍の兵器で、中には某国製の最新武器もあり優秀なものが少なくなかつた。左下は九月二十日昌圖岡附近紅頂山の戦闘に於て敵陣を猛撃しつつある我が重砲兵隊。又右下は事変勃発と共に自己の独断を以て満洲へ出動したる林朝鮮軍司令官である。
工廠(こうしょう):軍事工場。
鹵獲(ろかく):敵の武器・弾薬・資材を奪う事
昌圖(昌図):中国遼寧省の都市
この記事によれば、支那兵(蒋介石軍)300名が柳條溝付近で鉄道爆破を企てた際に日本の鉄道守備隊に発見され銃撃戦となったとあります。首謀者の王以哲の命令書によれば、爆破予定は午前2時ですので、前日午後10時半頃に爆弾の設置準備をしようとしていたところだったようです。王以哲は蒋介石軍の軍基地であった「北大営」の第7旅団の旅長だったため、日本軍は首謀者を捕まえるために「北大営」へ向かいました。支那兵(蒋介石軍)300名ですので、日本軍も緊急出動しないと対抗出来ません。一時は銃撃戦になったようですが、程なくして「北大営」を占領します。更に奉天にあった「東大営」も占領し、翌日9月19日には奉天城を中心とする東北軍(張学良軍=奉天軍=満州軍)を全滅し.させたとされています。これにより、奉天を日本軍が占領したことになります。
「歴史写真」の満州事変特集号では、日本軍が「苦戦」「激戦」の末に占領したとありますが、普通に考えれば、日本軍が、張学良軍に対抗して、軍事衝突を仕掛ければ「苦戦」「激戦」に至る以前に全滅したでしょう。張学良の率いていた東北軍(奉天軍など)は、満州各地に約二十二万の兵力を持ち、奉天付近だけで約1万5千の兵力があり、一方日本軍は満州東北部全域を合わせても1万人程度しかいませんでした。普通に考えて、勝てる見込みなどありません。柳條溝付近での銃撃戦でも、蒋介石軍側=張学良軍は300名の規模であり、鉄道守備隊で駆逐出来るはずもありません。そのため、実際には、「激戦」などは起っておらず、双方に多少の発砲程度の「小競り合い」で撤退したものといえます。また、その後の奉天城の占領においても、本格的な軍事衝突など無く、ほぼ日本軍に全面的に明け渡しだったといえます。
上記の事実からも、満州事変は、満州国の独立建国を図る為に、まず第一弾として、満州国の首都の奉天から、蒋介石軍を排除する目的で、「形式的な戦闘」または「やらせ的な軍事衝突」であったと言えるでしょう。蒋介石を欺くためには、何かしら戦闘が必要ですが、蒋介石軍隊の排除が目的であれば、蒋介石軍が日本に負ける必要があるからです。事前に綿密な「打ち合わせ」をして措かなければ、日本軍が全滅に成り兼ねません。蒋介石軍として、東北軍を統括する張学良が、裏で糸を引いていなければ、日本軍の勝利など絶対に有得なかったといえます。張学良は、「満州事変の真相4」の記事の通り、この年は6月から入院中で8月に至っても闘病中ということになっていましたので、病室で計画を指示していたのではないでしょうか。そのため、張学良は「病気」でなくてはならなかったといえます。
昭和6年11月(1931年9月)発行「歴史写真」から
昭和6年9月(1931年9月)満州事変特集号-満州事変写真 其の八ー奉天占領と治安正常化
記事:
九月十九日我軍の奉天入城と共に、 遼寧省の主席城式毅氏、參謀長榮珠氏等を始め支那側大官は全部姿を監 しその政治機能は一切停止せられたるも、厳正なる我軍の規律に信頼した城內外の支那人は孰れも落着いて 其堵に安んじてゐたが、更に同夜本庄關東軍司令官の發したる布告、及 憲兵隊の手により市内の要所々々 貼出されれる治安維持の布告等に 、市内は日ならずして静穏に歸し 商埠地街に於てる次々に門戸を開いた。
写真:
寫真の右上は我軍の奉天入 城共に占領したる中國銀行。左上は奉天城内に貼出されたる我が憲兵隊の治安維持に關する布告。又左下 は九月二十日長春駅より某方面に向ひ出動せんとする我軍用列車である。
満州事変の目的は、満州国の分離独立でした。その第1段階として起こした「柳條溝の満鉄爆破計画事件」では、満州国の首都である「奉天」から、蒋介石軍を一掃することが目的でした。そして、最終的には、分離独立を予定する満州全地域から、蒋介石政府軍を完全撤退さえることでした。
日本側、及び、満州側(東北軍)ともに「最も人的被害の少ない方法」として、張学良が自ら奉天を退城し、少しづつ南へ移動、最終的には、蒋介石政府のある南京へ「異動」してしまう「戦略」が取られたといえます。東北軍の総統が奉天を放棄するのであれば、当然、率いていた東北軍(蒋介石軍)も一緒に、奉天から撤退する理由が出来ます。また、東北軍の総統が満州地域から撤退するのであれば、当然、率いていた東北軍(蒋介石軍)も一緒に満州地域から全撤退する「名分」が出来ます。これは、「戦わずして勝つ」ための最も効率的な戦法だったといえるでしょう。
そのため、張学良は、6月から病気で入院。9月に日本軍が奉天を占領した後は、入院中では「引越し」出来ないので、満州事変勃発に合わせて事前に退院しておけば、軍事衝突で奉天を占領した日本軍に、まるで追い出されたかの様な「演出」も成り立ちます。非常に賢い「戦略」と思います。