第二次上海事変の真相8ー上海戦線:アメリカ軍の上陸
第二次上海事変は、一般に8月13日に起きた蒋介石政府軍による日本人租界への不法発砲事件を発端としています。8月23日には、日本軍が、上海近郊へ陸軍部隊を中国本土へ上陸させる事態に発展し、その後、11月14日頃までに、日本軍が上海全域を掌握する形で収束しました。
日本軍は、8月23日に第一陣の上海上陸後、9月は上海市街地を中心に「軍事衝突」を繰返し、市街地を攻略。10月からは上海近郊、広州で、蒋介石政府軍の軍事拠点の掃蕩を行いました。日本軍は極めて少数であったため、正面衝突では勝ち目はありません。軍事基地や軍事拠点へ集中攻撃し、敵の戦力を根幹から潰す作戦を展開していたようです。
昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)-
記事:
八月十三日、上海に於ける日支兩軍の開戰以來、我が豪勇無雙の海空軍が、上海、南京、廣東、其他中支南支の重要都市に於ける敵の作戰根據地、 及び各地に散在する飛行場等を爆擊して打樹てた戰績村賞に枚舉に進ないのであるが、就中壮絶比なき空中戰に於て、敵機と渡り合い是を擊墜したるもの、及び高射砲に依て是を射墜したるものの數は、十月四日までに既に三百餘機に達し、是に地上爆擊に依て破壊したるものを加ふれば、既に四百機以上に及ぶと報ぜられ、我が荒鷲部隊の赫々たろ偉動は、永く世界の戰史に輝くところであらう。
写真:
寫眞は、九月中旬、上海なる引翔港競馬場に撃墜せられたる敵のカーチス・ホーク戰闘機で、我が兵士等機上に跨り萬蔵を唱へつつある有様である。
上記は、日本軍が10月上旬までに、上海、南京、広東などの都市の蒋介石政府軍の軍事拠点や飛行場を攻撃し、400機以上を破壊したとの記事です。カーチス・ホーク戰闘機はアメリカ製の戦闘機でした。蒋介石政府軍には、イギリスと同様、アメリカも多額の軍事資金提供(軍事借款による)をしていました。その資金で、蒋介石政府は、戦闘機や戦車など軍事兵器を、イギリスやアメリカなど欧米諸国、更にはロシアからも輸入していました。上記の写真がその証拠です。
蒋介石政府軍の戦闘機は1000機以上でしたので、400機破壊しても、半数以上は無傷で、その多くを日本軍が確保したといえます。この点でも、飛行場の滑走路への空爆は、中々、的を得た戦略だったといえます。飛行場を陥落すれば、戦闘機がタダで手に入ります。 また、上記の写真の様に、破壊されていますが、プロペラなど部品が再利用出来る状態での「奪取」のため、地上からの高射砲での射撃し、比較的低い高度から墜落させたのではと考えます。こうして「奪取」された戦闘機は、蒋介石追放後の「中国の新政府軍」の軍備として転用されたのは言うまでもないでしょう。
昭和12年11月(1937年11月)発行「歴史写真」から
昭和12年9月(1937年9月)- 戦線の支那女学生とアメリカ陸戦隊の上陸 其他
記事:
(右上)上海戦線は、支那側の最も力瘤を入れつつあるところで、中央軍中の最精錠をすぐり、其他に男女學生の義勇軍まで參加し、抗日精神總動員の觀を量しているのである。寫眞ば最前線の土翼に據って、我に抗する女學生義勇兵の一隊。
(左上)上海の第一線に活躍しつつある中央軍大刀隊で、大半が青龍刀を振驚しての奮戰振りである。
(右下)上海の事態憂慮に堪へぬとあって、アメリカ海軍の陸戰隊が、九月下旬、黄浦江岸に上陸した。 寫真は上陸當日その軍樂隊の市中行進。
(左下)同じくアメリカ陸戰隊が、トラツクに乘って部署に就かんとするところである。
写真拡大 -アメリカ陸戦隊の上陸
アメリカと蒋介石の関係
第二次上海事変の頃には、世界恐慌で経済的に大打撃を受けたイギリスに変わり、アメリカが蒋介石の軍事支援に力を入れるようになっていました。日中戦争(日本ー蒋介石せんそう)での、蒋介石とアメリカの親密な関係については、現在の歴史認識としては、殆ど知られていないようですが、蒋介石の夫人であった宋美齢の父親である宋嘉澍は、アメリカのボストンの実業家であった宋氏の養子となり、蒋介石の政府財源である浙江財閥の母体を作った人物です。蒋介石は、この浙江財閥を経由して、アメリカ、イギリスなどと軍事借款契約を結んでいました。諸外国との「軍事借款契約」が必要なので、金融系財閥と結びついていたともいえます。当時も、この時点で、既に、アメリカからも多額の軍事借款提供を受けていたでしょう。
一方、イギリスは、この頃、中国よりも、チベット(西蔵)方面の天然資源にターゲットを移行しつつあり、アメリカに「蒋介石の面倒を見させたい」というのが本音だったのではないでしょうか。アメリカのルーズベルト大統領の妻であったエレノア夫人は、蒋介石の妻であった宋美齢とは「親友関係」だったようで、このコネクションを利用して、蒋介石はアメリカを取り込んで行きました。「親友の振りをして相手を利用する」というのも、卑劣ですが、これも「戦術」の一つです。蒋介石と宋美齢の常套手段でしたが、張学良におなじ手口で陥れられたといえます。
アメリカの上海上陸
第二次上海事変の際、アメリカが、この時、現地のアメリカ人居留民の警護のために派兵したのか、日本と蒋介石政府との軍事紛争の仲裁のために派兵したのか、それとも蒋介石政府側で日本に宣戦布告をするためか、真相は不明です。ですが、この時、日本軍が、万が一でもアメリカ軍を攻撃した場合、アメリカが日本に宣戦布告してくる可能性はありました。アメリカ軍の上海上陸により、中国上海地域で、日米の軍事紛争が勃発する危機が迫ったことは確かでしょう。
アメリカ軍の上陸は、9月下旬だったようです。幸い、この頃までに日本軍は上海市街の殆どを制圧しており、結局、日本が、アメリカに、蒋介石側で参戦する大義名分(理由)を与えることは無かったようです。当時は、フィリピンがアメリカの植民地となっており、中国で日本とアメリカの間で「軍事衝突」が起きれば、アメリカはフィリピンから大軍を上陸させられる状況がありました。蒋介石は、ここの目を付けたといえるでしょう。
アメリカのルーズベルト大統領の日本嫌悪
Wikipediaのルーズベルト大統領に関する記載によると、ルーズベルト大統領の母方の祖父は、アヘン戦争以降、中国でのアヘン貿易で財を為した人物だったようです。アヘン戦争やアヘン貿易は、イギリスの植民地化政策の一環として行われていたものです。このことから、ルーズベルト大統領は「親中派」というより、「中国の植民地化に積極的であった人物」いう理解の方が正しいといえます。
ルーズベルト大統領は、蒋介石と敵対する日本について、日本人の頭蓋骨は「われわれのより約2000年、発達が遅れている」という見解を支持し、ヒトラーのユダヤ人強制収容と同様、日系人の強制収容政策を推し進めするほど、日本を一方的に嫌悪憎悪していました。 日本への原爆投下を決定したのもルーズベルト大統領です。
祖父がアヘン戦争に関わっていた「ユダヤ人商人の一族」であれば、反植民地化の先陣を切っていた日本については、「不快感のある国家」であったとしても不思議は無かったでしょう。これに加え、「南京大虐殺事件」の「証拠」とされる残虐な写真を見せられれば、日本が中国を侵略しているというデマを完全に信じ切ったとして仕方なかったかも知れません。
アメリカ人として「高潔な人柄」だったからこそ、騙されてしまったのでは無いでしょうか?
こうした「本当の歴史」についても、世界の国々に、
特に、アメリカの人々には正しく理解頂きたいものです。