第1次上海事変の真相1―蒋介石の日本在留民弾圧

第1次上海事変の真相1―蒋介石の日本在留民弾圧

現在の歴史理解では、一般的に、第1次上海事変とは、「1932年(昭和7年)1月28日から3月3日にかけて戦われた中華民国の上海共同租界周辺で起きた日中両軍の衝突となっています。この第1次上海事変も、「日本軍が襲撃」したことになっているようです。しかし、日本は「襲撃」したのではありません。蒋介石政府軍からの再三の攻撃に対して、「反撃」に出たのです。

第1次上海事変の起きた時期は、中国での南北民族戦争が中盤に差掛った時代です。蒋介石の「北伐」では、南部の漢民族が主導する政府により、一旦は「統一中国」が達成されました。しかし、その後、今度は北部の満州民族が「統一中国」から「分離独立」を図ります。1931年9月に起きた満州事変は、満州民族による民主独立軍事グーデターだったのが真相です。第1次上海事変は翌年1932年の1月28日からです。その約1カ月後、1932年3月1日、満州国は建国します。第1次上海事変もまた、満州民族側の民主独立軍事グーデターの重要な戦略でした。

 

昭和6年12月(1931年12月)発行「歴史写真」から
昭和6年10月(1931年10月)満州事変特集写真(其三)上海の排日悪化と我が陸戦隊の上陸

記事:

(右上)上海に於ける排日運動悪化し、十月十八日午前十時頃一萬餘名の暴徒は邦人紡績工場内外綿工場社宅を襲撃し、大狼藉を働いたが機敏なる我が陸戦隊上陸して速に是を一掃した。写真は襲撃せられたる社宅。(左上)排日悪化の為め特別陸戦隊四百名を便乗せしめ上海黄浦江に雄姿を横たへたる我が敷設艦『常磐』
(下段)前記支那暴徒が上海の内外綿工場を襲撃したる際出動したる我陸戦隊で、当日はタンク機關銃をも繰出し場合に依ては斷乎発砲する準備をなし彼我相對時して形勢一時険悪を極めたが幸ひにして流血の惨を見るに至らなかつた。

上海では、満州事変のすっと以前より、蒋介石政府派による法人への虐殺や襲撃が度々起きていましたが、満州事変が勃発して以降は、更に排日活動が著しく悪化しました。南部の蒋介石政府からすれば、北部東北部を日本に占領されるという「解釈」です。当然、南部の上海では、日本人への制裁が繰り広げられました。

事変勃発の翌月10月には、紡績工場の社宅が一万人を超す暴徒によって襲撃され、特別陸戦隊が機関銃を装備して収束に当たる事態が起きていました。日本は、第一次上海事変までは、大使館襲撃での凌辱事件など、遣られ放題で我慢して来ていました。理由は、当然、圧倒的な兵力差から、大きな軍事衝突を起こせば、日本軍が絶滅し兼ねません。勝利するには、十分な戦略が必要だったといえます。この時も、ギリギリまで「我慢」したといえます。

昭和6年12月(1931年12月)発行「歴史写真」から
昭和6年10月(1931年10月)満州事変特集写真(其四)支那自身を毒する劣悪なる排日ポスター

記事:

上海に於ける反日運動は益々猛烈となりこれに伴う支那人得意の排日ポスターは今や街頭を埋めんばかりに張り出され、その劣悪幼稚の構案を以てする激烈暴慢の味ポスターは不愉快を極めたもので、そこに記された過激な毒舌と狂的な暴言とには外人すら眉をひそめざるを得ないものがある。

 

蒋介石政府では、反日排日歩スターを街頭へ大量に張り出すなど、早期から「大衆への情報操作」を行っていました。満洲事変以降は、反日排日が激化し、脅威を感じた上海の邦人居留民による大会も開かれ、その際に剥ぎ取ったポスターは4000枚に達したようです。しかし、その翌日には、更に大量のポスターが張り出される事態が続き、日本の外務省より国際連盟へ送り窮状を訴えたようです。

当時は、朝鮮半島の人々も日本と一緒に植民地危機を回避するため戦ってくれていました。満洲地域には朝鮮半島の方が近いため、日本軍ですが、兵士としては朝鮮軍も満州へ出兵していたので、「日本が朝鮮人を使って、中国人を惨殺している」というポスターを作り、朝鮮人の方へも「利用されている」という誤解が生じるよう印象操作をしていました。「誤解」が生れれば、蒋介石側としては「朝鮮人」を日本を攻撃する「手駒」に使えます。一般民衆は「多額の軍事債務」のことなど全然想像もしなかったでしょう。朝鮮半島でも、蒋介石に騙され、何人がその貴重な人生を犠牲にしたか解りません。

満州国が独立出来なければ、やがては、朝鮮半島の人民も、多額の軍事借款債務を負う事になります。要は、植民地下の奴隷ということです。中国に地続きであるため、日本より直接的な支配下になるのは朝鮮半島です。日本も必死でしたが、朝鮮半島の人々はもっと深刻だったといえます。

日本が「支配した」と今の多くの方々が誤解していますが、朝鮮が日本併合下でないと、他国の直接攻撃の対象になります。多額の軍事借款債務で「他国の奴隷」になるか、「大韓帝国の再独立」の状況が整うまで「日本の防衛傘下に入る」か、賢い李氏本家の王族が「後者」を選んだのは当然の選択だったと思います。

 

昭和6年12月(1931年12月)発行「歴史写真」から
昭和6年10月(1931年10月)上海在留邦人大会

記事:

満州事変勃発後、自らの非を悟らざる支那政府の宣伝に動かされ、無智狂暴の支那人は上海、廣東、北京其他の各都市にて益々盛んに排日の既成を挙げ、あるいは邦人経営の商店を襲撃し、又は、通行中の邦人へ危害を加ふる等、漸次暴虐の度を加え来つた爲め、上海在住の日本人は十月十一日午後一時より日本人北部小學校に於て居留民大會を開催した。當日は日本人の各商店は悉く休業して是に參加し、參會者の數六千名に上り、非常なる盛會であった。かくて該大會は、今や時局の危機に際し政府の斷乎たる態度と措置とを希望する旨の宣言を可決して閉會したが、散會後興奮し切った邦人群衆は一團となって會場を流れ出で北四川路を南行して気勢を舉げた。

  

当時、上海には、6000人以上の日本人が在留していたようです。写真からも大きな抗議大会であったことが伺えます。中国の産業は、地理的な特徴から、北部は天然資源の採掘南部は農製品や手工業製品の生産が大きな柱となっていました。当時の日本は、北部の天然資源を輸入し、現地邦人工場で衣料品や日用品の生産を行い、中国全土へ流通していました。現在の日本が、自動車などを海外の現地邦人拠点で生産し、直接販売しているのと同様です。

上海は、外国企業も多数在留する国際都市であり、中国の中南部への商業取引の大拠点といえる都市でした。社宅の襲撃や、通行中の邦人への暴行事件が起きるほど、上海では蒋介石政府による日本人への弾圧が強まっていました。

蒋介石としては、植民地化を図るイギリスを後ろ盾に、中国では大規模な内乱を起こす「機会を常に狙っていた」でしょう。日本軍とは、蒋介石が負ける理由が全く無いほど、圧倒的な軍事力差がありました。だからこそ、それまで、日本は、大使館襲撃など現地法人への残虐行為をただ耐え忍ぶしか無かったのですが、第1次上海事変では遂に、日本軍が反撃に出ました。この決断に至った背景としては、満州国を何としても独立させる必要があったからです。しかし、日本軍が全滅せず、満州国が独立出来た背景としては、中原大戦以降は、中国南部でも、蒋介石政府への支持が低く、政府内でのは密かに内部崩壊が進んでいたことが推察出来ます。

蒋介石は、後の台湾での統治のように、独裁傾向が非常に強く、利用価値が無くなると暗殺や失脚を繰返していたため「離反者」は非常に多かったとしても不思議はありません。

 

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

日本ブログ村に入村しています。

読み終わったらクリックお願いします。