朝鮮半島の日本併合の真相8-日本皇室による大韓帝国の再興計画

朝鮮半島の日本併合の真相8-日本皇室による大韓帝国の再興計画

日本政府による李氏王朝(Rhee Dynasty)の世継ぎの保護

李氏朝鮮(Rhee Dynasty)は1897年に大韓帝国として中国の清帝国の属国から独立を果たしました。これは1894年7月から1895年4月までの日清戦争に日本が勝利したことにより、日本が、清帝国に対し、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)に対する宋主権を放棄させたからでした。これにより、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)は長年の「属国」の立場から脱却し、厳しい朝貢から解放されました。

日本が「侵略目的」だったのであれば、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の王朝をこの時点で滅亡させて然るべきですが、日本は李氏朝鮮王朝を存続させるべく1987年大韓帝国の樹立を手助けしました。しかし、王妃の画策により1904年に日露戦争に至ったことから、1910年に朝鮮半島の日本併合に踏み切ります李氏朝鮮(Rhee Dynasty)からの民主独立運動(奴隷解放革命)も国内では続いている時代でした。日本併合では「奴隷解放」が達成されたものの、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)での長年の「奴隷への残忍な扱い」から、国内では李氏朝鮮王家への反発の動きも活発であり、純宗の世継ぎであった世子は常に暗殺の危機に瀕していたといえます。

当時の李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の王は、このような国情を理解していたでしょう。その上で、「日本併合に同意する」条件として、「将来的な大韓帝国の再興」を約束させたのでしょう。これが、日本併合後、李氏王家(Rhee Royal Family)の皇太子を、日本の皇族として保護していた理由であり、この約束が無ければ、李氏王家(Rhee Royal Family)が日本併合に同意する理由は無かったでしょう。国内での政治情勢も不安定であることから、王は、将来の「国家再興」ために、世子を日本で保護することに同意したといえます。世継ぎ(世子)の暗殺回避に加え、日本との友好関係構築の意味がありました。

こうした経緯から、倭国系(古代日本ルーツ)朝鮮人だけでなく、李氏(Rhee)など中国人系の朝鮮人は、日本と協力して朝鮮半島の発展に貢献する道を選びました。また、世継ぎ(世子)の日本渡来に伴い、日本にも多くの李氏(Rhee Family)や配下の中国氏系朝鮮人が日本人に渡来しました。これらの人々は、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)王族の「本家」と配下の人々でであり、当然、日本併合に賛成した人々でした。

一方、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)王族の「分家」の一部の人々は、「日本併合」以前から、「本家」の政策に反対しており、この頃、既に「本家」と「分家」の対立構造が生れていました。これが、現在、日本にも北朝鮮にも、李氏王族系の人々が多数存在し、単純に、南と北で、李氏(Rhee Family)対金氏(Kim Family)になっていない理由です。

日本の大正天皇陛下と朝鮮の李垠皇太子殿下(Crown Prince Rhee Yun)ー Wikipediaから

以下のの写真は、当時の日本の天皇陛下(大正天皇陛下)と、李氏朝鮮皇太子の李垠(Rhee Yun)殿下の写真です。大正天皇陛下は、李垠(Rhee Yun)殿下を自分の息子のように思っていたのではないでしょうか? 二人で同じように左腕を曲げて剣を持ち同じポーズで写真を撮られています。本当の関係を知らずにこの写真をみれば、まるで父親と子です。

大正の天皇陛下(左)と朝鮮の李垠(Rhee Yun)殿下(中央の少年)

 

日本は、蒋介石の中国からの国外追放に成功し、中国は新支那中央政府の樹立も達成し、中国の安定は、もう少しの所でした。ところが、蒋介石と李承晩が、独裁国家樹立の野心の為に、日本とは全く戦う必要の無いアメリカを騙して戦争に引き出し、アメリカを使って、日本を徹底的に破壊しました。中国では蒋介石を一旦は排斥出来たものの、日本撤退後は、明shと共産の政府主権を巡って戦争が勃発しました。中華人民共和国樹立後も、国内での反発を抑え、再度の内乱を抑えるために、更に多数の犠牲者が出る結果となりました。

全く同様に、朝鮮半島では李承晩が軍隊を引き連れ海外から戻り、朝鮮半島の統治を巡り、金氏一族に対し大虐殺を行いました。南北に分裂し、南で韓国が成立後も、韓国政府は、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の「本家」の世継ぎである「李垠殿下(Rhee Yun)(当時は王)」の帰国を拒否し続けました。当然、朝鮮半島にいた、その他の李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の「本家」一族は処刑や投獄された可能性は高かったでしょう。

李承晩の軍隊は1940年に中国で結成されました。 李承晩も王族分家の多くが海外に出ており、実際の日本併合時の朝鮮の真実を殆ど何も知らない人々でした。李氏朝鮮(Rhee Dynasty)は鮮卑族の征服王朝である事さえ知らず、彼らは、まるで、日本が自分達の国を奪ったかのように大きな勘違いをし信じ込んでいたかも知れません。李氏朝鮮(Morning(East)Xianbei Ree)という国名であるにも関わらずです。

 李氏朝鮮(Rhee Dynasty)から大韓帝国そして日本併合

 朝鮮では1800年中頃から民衆(金氏一族)による独立運動が激化の傾向にありました。これは、当然、奴婢(奴隷)となっていた人口8割の民衆(金氏朴氏の倭人系)による奴隷解放革命です。

1868年の明治維新後は、日本を諦めたイギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国は、朝鮮半島の内乱にも目を付けており朝鮮半島もまた植民地化の危機に直面する事になりました。中国の清帝国は1800年代2度に渡るアヘン戦争でイギリスに大敗し、清仏戦争にも大敗しました。清帝国は、それまでも支配していた多くの属国を失いました。

中国では、欧州による植民地化が激化する中、清帝国は日本に救援を求めました。1894年の日清戦争で日本は清に勝利していますが、中国をヨーロッパに取られないようにする為に、日本が中国に進出する状況が作られたと考えられます。既に清帝国の国力は衰え、滅亡も時間の問題でした、日清戦争では、日本に勝利させる代わりに、日本に経済支援させることで、清帝国を立て直す意図だったかも知れません。清帝国滅亡後は、植民地化危機が去った後、清帝国の再興(満州国建国)に日本が協力するという密約に至ったかも知れません。その後の歴史の流れを考えれば、日本が、戦争した清帝国と、その後も親密な経済協力関係を築いていた理由だったと言えるでしょう。日本は一度は植民地危機を脱しました。しかし、中国が植民地化すれば、日本も次は植民地化は免れず、日本にとってはも死活問題です。この頃から長きに渡り日本と中国とは協調関係にあったといえます。

朝鮮半島も、当時、南部や東部を中心に大きな内乱が度々起こり、ヨーロッパ諸国の格好のターゲットとなっていました。日本と中国との間にある朝鮮半島をヨーロッパに取られる事は日本にとっても中国にとっても死活問題でした。日本は、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)を、清帝国から独立させ、国名を大韓帝国と改めました。日本に続き、朝鮮半島も近代国家に生まれ変わったことを示し、ヨーロッパの目を反らす対策だったといえます。

しかしながら、1904年に日露戦争が勃発し、状況が変わりました。日本併合は、元々、ロシアとの戦場となった満州地域への日本軍の通過のために、話が持ち上がったと言われます。ロシアの朝鮮半島への南下を阻止し防衛する目的もありました。外国であれば、毎回、軍隊の進出には通過許可が必要です。それでは、ロシアが急に半島へ南下進出して来た時に、日本軍は対応できませんでした。朝鮮にはロシアに対抗できるだけの十分な近代的軍隊は無かったため、日本軍が制圧に行かなければ、朝鮮半島は守れません。またロシアの再度の突然侵略に備え、日本軍を朝鮮半島北側に配置する必要もありました。

残存する写真などから、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)では、国内の経済状況も民衆も荒廃し切っていた事は明白です。国内の資源も資金も非常に乏しく、日本としては、多額の一方的投資であったといえます。当面は収益回収は全く見込めないのは明白でした。当時の日本の首相が、暗殺されても、徹底的に日本併合を反対した理由は、朝鮮半島の日本併合が日本にとっては「大きな不利益」だという判断からでした。当時の欧州に因るアジア植民地危機など、世界情勢を知らない民衆からの反日独立など民衆暴動も十分に予想されました。日本にとっては、混乱の大きな火種を抱える可能性は高かったといえます。

一方で、朝鮮半島は、かつて日本の領土であった場所です。唐に大敗し分離後は、李氏王朝(Rhee Dynasty)支配下で、取り残された倭人(古代日本人)は多くが奴婢など奴隷階級となり圧政に苦しんでいました。「倭人(古代日本人)の国」である「日本」にとっては、朝鮮半島の倭人の奴隷状態は無視出来なかったでしょう。当時の写真を見れば、過去の歴史を知っていた日本人は居た堪れなかったと思います。奴隷解放や民族解放を考えた日本人は多かったといえます。中国による長年の朝貢のため、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)は「極貧状態」でした。国家の再建に際しては、朝鮮半島への頻繁な日本人の行き来も必要でした。その利便性も考えると、両国が併合するという結論に至ったと言えます。

昭和5年発行「歴史写真」- 李垠王(King Rhee Yun)殿下の記事

李垠(り ぎん(Rhee Yun)、이은〈イ・ウン〉1897年10月20日-1970年5月1日)
李氏朝鮮第26代国王。大韓帝国皇太子。日本の王族、李王。妃は梨本宮守正王第一女子方子様。戦争中は、李王李垠殿下は、日本の王族待遇で、日本で生活。

記事:陸軍歩兵少佐、李王垠殿下で明治30年10月20日の生まれ

 

写真拡大ー李王垠陛下

この当時、既に、前の李氏朝鮮王である純宋は崩御されていたようです。「皇太子」ではなく、李王「(国王)」として掲載されています。

 

李王の李垠(Rhee Yun)殿下と妃殿下の方子様(梨本宮守正王第一女子)

 

李垠(Rhee Yun)陛下は、22歳で、日本の天皇家一族の梨本宮守正王第一女子方子様とご婚礼の義を挙げられました。1926年に全王の純宗が崩御した際、李王(King Rhee)を即位し、朝鮮半島の情勢が安定化するのを日本で待っていました。方子様との間には、男子親王がお二人生まれました。ご長男は生後間もなく他界されましたが、ご次男の李玖(Rhee Ku)殿下が次の王位を継承しました。

 

写真拡大ー昭和5年発行「歴史写真」李王殿下と妃殿下 京都天皇家ご陵ご参拝

 

李玖(Rhee Ku)親王 ご誕生 (1931-2005年)

昭和7年発行「歴史写真」 ー王世子 李玖(Rhee Ku)親王ご誕生の記事

 

写真拡大ー王世子 李玖(Rhee Ku)親王(1931-2005年)左上 記事

記事:多年内鮮人の翅望(しぼう)し奉りたる李王殿下御世子は昨年12月29日目出度く御誕生、李玖殿下と申して御肥立ちいとも麗しく、6月1日には宮中に初のご参内あらせられた。写真は即ち王世子殿下最近の御姿で特に李王家より御貸下になりたるもの。

英語訳:His Imperial Highness Prince Yi, who has long been a favorite of the Korean people, was blissfully born on December 29th last year. The Prince was named Rhee Ku. The postpartum is very well and on June 1st,  His Imperial Highness Prince visited the main palace of Imperial castle.  The photo is a recent appearance of His Imperial Highness the Crown Prince, which was borrowed by the Rhee Royal Family for the special announcement.

翅望(しぼう):志望 /王世子(Seja):韓国王朝で世継ぎの呼称

 

戦後の李王(King Rhee) -李垠(Rhee Yun)殿下

戦争は1945年に終わりました。当時は、李王李垠( King Rhee Yun)王も李玖親王(Prince Rhee Ku)もご存命でした。日本としては、朝鮮半島からの完全撤退後は、当然、李氏王族(Rhee Royal Family)の「本家」の王である、李垠(Rhee Yun)王が朝鮮半島へ戻られ、王位に付くと考えていたと思います。ところが、李氏王族(Rhee Royal Family)の「分家」であった李承晩がいきなり自分の軍隊とアメリカ軍を引き連れ、朝鮮半島へ戻り、大韓民国を立上げ、アメリカの軍事力を背景に利用し独裁政権と恐怖政治を図りました。李承晩が、李垠王(King Rhee Yun)の韓国への帰国を拒絶した事は史実としても大変有名です。

李垠(Rhee Yun)殿下が、朝鮮半島に戻れば、必ず民主革命の中心人物になったでしょう。李承晩は、李氏王族(Rhee Royal Family)の外戚一族の出身でした。李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の清帝国からの独立、朝鮮半島の日本併合、李承晩による大韓民国の樹立という歴史流れの中で、李氏王家(Rhee Royal Family)の「本家」と「分家」との間で、権力闘争が起きていたと言えるでしょう。結論としては、日本はこの「本家」と「分家」の権力闘争にも巻き込まれたという事です。

韓国政府は、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の本家の正統な王である李垠王(King Rhee Yun)を、約18年もの間、一度の帰国さえ許しませんでした。李承晩と韓国政府は、李垠王(King Rhee Yun)は「朝鮮を侵略した日本の手先」であると、虚偽情報を国内外へ流布し、迫害したためです。李承晩は、蒋介石同様、「日本が朝鮮を侵略した」としてアメリカを騙して軍事利用しました。李垠王(King Rhee Yun)が帰国すれば、李承晩の嘘が国内外へ発覚したでしょう。李承晩は民衆からの支持と信頼を完全に失ったでしょう。

戦後は、満州国皇帝だった愛新覚羅溥儀は日本に利用されたとされました。韓国政府が、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の李垠王(King Rhee Yun)も「日本に利用された」と主張すれば、帰国は十分可能であり、国民からの反発も回避出来ました。しかし、李承晩による独裁政治下では、李垠王(King Rhee Yun)が戻れば、反政府勢力の中心人物となる可能性が高く、長年に渡り迫害を続けていました。李垠王(King Rhee Yun)も、後継者のの李玖王(King Rhee Ku)も、戻れば国内での大きな民主革命の中心となったでしょう。帰国拒否により、李氏王族(Rhee Royal Family)の「本家」である李垠王(King Rhee Yun)とご家族は、日本の皇室で皇室待遇のまま「保護される」ことになりました。李承晩は、「李垠王(King Rhee Ku)が朝鮮を日本に売った」というデマを民衆に流しつづけ、李垠王(King Rhee Yun)と妃殿下の韓国帰国を拒絶し続けました。

日本併合前の朝鮮半島ー民衆(奴婢?)

日本併合前の朝鮮半島ー都市:首都ソウル(1904年)

上写真の1904年の「救いようのない朝鮮」の貧困状態から、1945年までの長い道のりまでの間には、朝鮮人も日本人も多くの苦難と困難があったはずです。一方、李承晩と李氏王族外戚の人々は、国の再建には一切手を貸さず、石ころ一つ拾う事さえもなく、税金も払わず、極度の反日で日本併合を批判するだけでした。実質的には、李承晩らは大した苦労もせず海外生活を満喫していたと言っても過言では無いでしょう。少なくとも彼らは当時の朝鮮の発展には全く貢献していません

彼らが行ったことは、日本へのテロ活動と独立運動で国内の混乱を招いていただけです。その上、戦後、突然、海外から軍隊と共に戻り、日本と日本併合派の朝鮮人の実質的な努力は無視し、「日本が侵略占領していた」として国を奪って行ったのです。国内では、李承晩率いる新政府に反発する勢力は大きかったことでしょう。だから「民衆(日本併合賛成派)の大虐殺」が必要だったのです。日本から、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の本家筋の王が戻れば、李承晩と新政府を打倒しようと革命暴動が起きかねません。これが、韓国が王を帰国させなかった本当の理由です。

以下は、戦前、李王 李垠陛下ご夫妻がヨーロッパご訪問された際のお写真


李垠殿下(King Rhee Yun)の帰国

李垠殿下(King Rhee Yun)がようやく母国である韓国へ戻られたのは、脳梗塞で倒れた後、1963年11月でした。

李垠殿下(King Rhee Yun)は1970年に崩御されています。本家と分家とはいえ、同じ民族の同じ王族の人間であるのに、李承晩は本当に容赦のなく酷いことします。

 

李王殿下と方子妃殿下(インターネットから)

 

この李垠殿下(King Rhee Yun)も「裏切り者」の汚名を着せられ、自国の人々にまで誤解され、辛い人生を送られたと思います

日本の皇室は、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の繁栄を願い、日本の皇室の梨本宮守正王の第一女子である「方子様」とのご結婚を決めました。日本の皇室としては、最高位に近い待遇だったと思います

この方は、非常に位の高いお姫様であり、天皇陛下のお妃になられたかも知れない高貴な方でした。李王殿下(King Rhee Yun)に、最期まで寄り添い、激動の人生を送られました。

李垠殿下(King Rhee Yun)にとって、方子様は、希望であり救いであったと思います。

 

韓国政府の初代李承晩と李氏朝鮮(Rhee Dynasty)王族の「分家」一族は、当時の朝鮮の事も、中国の事も、ヨーロッパの植民地化の事も、皇后の迂闊な行いにより日本に日露戦争を招いた事も、天皇家の真の思いも、何一つ理解していませんでした。李氏朝鮮(Rhee Dynasty)王族の「本家」が同意していたにも関わらず、「日本が朝鮮を侵略した」として、一方的な恨み(思い違い)で、蒋介石と共に、アメリカを騙し、軍事利用して、日本を潰滅されました。

その結果、日本、中国、朝鮮だけではなく、その後のベトナム、ビルマなど、東南アジアの大内乱や大虐殺も含め、アジアが徹底的に破壊される原因となったのです。

インターネットの情報では、李垠殿下(King Rhee Yun)のご子息であった李玖殿下(King Rhee Ku)にはお子様はなく、その次の李王である李源(King Rhee Won)氏は養子になっているようです。

 

李氏朝鮮(Rhee Dynasty)ー李源王(King Rhee Won):(本家 )

李源王(King Rhee Won)は李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の26代王の高宗の5男である李堈(Rhee Kang)氏の9男の李鉀(Rhee Gab)氏のご長男です。李垠殿下(King Rhee Yun)は7男でしたが、高宗の正室のご子息。一方、李堈(Rhee Kang)氏は5男でしたが、側室のご子息でした。そのため、李垠殿下(King Rhee Yun)が李王を継承しました。

李源王(King Rhee Won)は、李垠殿下(King Rhee Yun)のご子息の李玖殿下(King Rhee Ku)の養子です。そのため、厳密には、日本の皇族と、韓国の李氏王家(Rhee Royal Family)の「本家」とは、依然、親戚関係が継続しているといえます。李玖殿下(King Rhee Ku)は韓国に帰国した後も来日したようですが、その養子の李源氏(King Rhee Won)は日本へは一度も来日していないようです。

李源氏(King Rhee Won)が日本と近づけば、現在の政権奪回に動く可能性があると誤解され、命に関わるからかも知れません。2018年当時のWikipedeiaでは、アメリカで生活をされているとありました。李源氏(King Rhee Won)は、李海瑗女王陛下と、皇位継承で激しく対立されていたようでした。2022年の記載では、李源氏(King Rhee Won)は、2001年に韓国に帰国されていることになっています。一方、2006年に韓国では、「分家」の李海瑗女王の「皇位継承式」が行われ即位されました。2018年当時のWikipedeiaでは、李源氏(King Rhee Won)は、アメリカ在住と記載されていました。皇位継承対立で韓国内にいられない印象がありました。

韓国に関する情報は、常に変化するので信頼性が非常に低いです。もし李源氏(King Rhee Won)が、本当に現在も韓国でご健在であれば、何よりです。唐の皇帝からつづく、中国の鮮卑族の歴史的血筋ですので。

しかし、ふと思いますが、日本併合が終わった際、韓国の李氏王家(Rhee Royal Family)の「本家」の親族の方々はどうなったのでしょうか。李海瑗女王陛下は日本併合時は海外にいて、李承晩とご帰国された方です。李承晩があれだけの大虐殺を行いましたので、「本家」の親族の方々はもしかすると北朝鮮へ逃げられたのかも知れません。

 

李氏朝鮮王ー李 海瑗女王陛下(分家)

(1919年2月24日 – 2020年2月8日)

Wikipedia – 李 海瑗女王陛下

李海瑗女王は、李氏朝鮮(Rhee Dynasty=大韓帝国))の王族の一人で、帝位請求者。最後の朝鮮国王にして初代韓国皇帝である高宗の五男李堈(RheeKang)と側室の間に次女として生まれ、高宗の5親等の族甥である李埼鎔の養女となった。李王家末裔として、全州李氏宗家の第30代当主を主張、「文化大韓帝国(문화대한제국)」の「女帝(여제)」を称し、甥の李源(Rhee Won)、弟の李(Rhee Seok)と争っていた。-Wikipedia 2018年記載

韓国では、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)王族の分家一族の側室の次女で王室外へ養女に出た方が、2006年に女王に即位されたようです。2006年は「大韓帝国皇族会」という李朝(Rhee Royal Family)の末裔の方々の会が結成されたようです。当時、ご「本家」のご養子が、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の王を継承していないことから、こちらの会の皆様は、「分家」の方々の会のようです。必然的に、日本併合反対派の李氏朝鮮王族(Rhee Royal Family)の皆様ですね。

多分、「御本家」の血統の方々は、李承晩の大虐殺の際に、北部へ逃げられたか、処刑されたかで、現在の韓国にも「直系の血統」の方はいらっしゃらない様です。これは、上記のお写真の女王陛下が継承されたことからも明白です。

李源氏(King Rhee Won)の韓国復活で、「本家」の王家筋も復活したのでしょうか?

李氏朝鮮(Rhee Dynasty)王家は、唐の鮮卑の李氏皇帝(Enperor Rhee)一族の末裔であり、世界史的には「世界遺産的な貴重な血統」の一族です。

「本家」「分家」に関わらず、後世に続いて頂きたいものです。

 

 

 

在日韓国人(南)、在日朝鮮人(北)、

帰化韓国人(南)、帰化朝鮮人(北)、

皆様に言いたい!

日本の敗戦後は、「李承晩の大虐殺により、日本併合時に、日本人へ復帰した人々と、李氏朝鮮(Rhee Dynasty)の本家の皇太子と共に日本へ渡来た人々などが、朝鮮半島へ戻れない状況が起りました。

朝鮮半島に戻りたくても、戻れなかったのです。現在の「在日朝鮮人」が形成されて行きました。
(韓国建国前)

 

韓国建国後、朝鮮戦争の休戦後は、韓国では、独裁体制からの脱却を目指し、市民や学生の民主革命(反乱)が全国規模で多発するなど、国内政治の情勢不安が起りました。結果、各地では韓国政府軍による「民間人の大虐殺」が継続していました。

結果、朝鮮半島から大量の韓国人が生き延びるために、日本へ密入国して来る事態になり、現在の「在日韓国人」が形成されて行きました。

(韓国建国後)

 

この当時、

大量の韓国人避難民の密入国を「黙認」

帰化の優遇政策など「救済措置」

を決めたのは、

日本政府であり、自民党です。

更に言えば、結局は

日本の天皇陛下

 

在日朝鮮半島人の人々、特に在日韓国人(韓国建国後の渡来人)の人々が、生き延びて、今、この日本で暮らしていられるのは、日本政府と自民党が支援したからです。何より、天皇陛下のお陰です。

 

なぜ、あなた方「在日」は、「命の恩人」である日本に対して敵対するのですか?

日本政府や自民党は「本来味方」です。、それを、まるで「親のかたき」かのように、常に反発を繰返している。

 

 

誰が、皆様の家族や親族を「虐殺」し「弾圧」したのか?

「李承晩」であり「韓国政府」ですよね?

 

その上で、

北朝鮮の軍事的な制圧による朝鮮半島統一に、

在日(Koreans)」に「嘘の歴史」を吹き込み

日本を軍事利用する為に

韓国政府は皆様利用してますよね

 

どうか皆様の本当の歴史を知って下さい。

騙されていることに気付いて下さい。

 

 

 

 

私はこの心優しい天皇家を尊敬しています。

天皇陛下萬歳!

 

「在日」の皆様、日本と天皇陛下にこんなに助けて貰って、尚、国家である「君が代」を歌う者を右翼だと批判し、「天皇陛下萬歳!」と感謝出来ないなら、正直、私は貴方達と一緒に住みたくない。

日本を混乱させるのは止めて欲しい

 

この国は我々日本民族の国です

日本民族がそんなに嫌なのなら出て行くべきと思います