内蒙古独立の真相2- 蒋介石政府の西蒙古進出
南部の蒋介石政府は、北部の様な天然資源には恵まれておらず、南部の主な産業としては、肥沃なデルタ地帯を生かした農産業や、対外貿易など商業が中心でした。北部と軍事衝突するには、産業基盤として「資金源が不十分」です。そのため、軍事資金も含め政府運営資金を海外への借款で賄っていました。この資金フローを確保するため、蒋介石は、アメリカ系中国人が経営する「浙江財閥」という「金融系の大財閥」を利用しました。蒋介石は、この「浙江財閥」の創始者の娘(宋美齢)と結婚しています。
満州国の建国当時は、北支那は依然として蒋介石政府の軍事統治下でした。北支での自治運動は北京が中心です。旧北京政府の政府所在地です。この動きが西蒙古地域へも影響しない訳がありません。蒋介石も、この分離独立の動きを察してか、満州帝国の成立後、西蒙古に有る「大同」を訪問しています。
昭和10年1月(1935年1月)発行「歴史写真」から
昭和9年11月(1934年11月)支那ニュース
大同駅に下車したる蒋介石氏
写真:
(右上)近く支那の独裁者たらんと志す蒋介石氏が大同驛(駅)の孔祥煕氏を訪問したところ。
(左上)去る十月末より北支方面邊疆(辺境)地方の大遊說た試みたる荊介石氏が、十一月中旬大同驛に下車したる光景で、右方の吊鐘マントは即ち將介石氏。
(右下)『日本に備へよ』の叫びの下に、鋭意空軍の整備を急ぎつつある廣東軍航空總司令黃光鋭氏。
(中下)廣東郊外の廣東飛行隊。
(左下)十一月廿一日南京に於ける防空大演習の審判本部である。
大同という都市は、山西省ですが、太行山脈の内蒙古側にあります。上記は、「歴史写真」の数ある写真の中の一枚ですが、蒋介石政府が内蒙古西域の分離独立を回避しようと、また、天然資源という「返済原資」を内蒙古西域へ求めて動いていたことを示す写真といえます。上記は大同駅に到着した時の写真ですが、辺境地方=内蒙古西部に、大遊説に歩いていたようです。この時、経緯は不明ですが、孔祥煕という蒋介石にとっては財務調達担当であった古くからの側近が大同にいました。孔祥煕は、浙江財閥の創始者一家の次女と婚姻関係にあり、三女と婚姻関係にあった蒋介石とは義兄弟でもありました。「財務大臣」ともいえる人物が、この当時、内蒙古を滞在していたということは、この地域を次の「軍事借款」の担保理由にするため、事前評価の調査に来ていたかも知れません。満州方面を断念したとすれば、内蒙古を狙うのは自然な流れでしょう。
綏遠省と百霊廟の位置
当時の内蒙古の主要産業も満州地域同様に天然資源産業でした。しかし、内蒙古地域と中国華北平野地域との間には、太行山脈という標高1500m級の高い山脈が北京の西北部から南西方向へ400Km程伸びています。中国での北側の大河である黄河が地図上で北から南に大きく折れ曲がりっているのを想像頂ければ、これが内蒙古と中国中原地域との自然の境界線であることが分かります。このため、内蒙古の西部地域から日本方面へ天然資源の輸送を行う場合、北京から西に山脈の間を抜けるしかありません。その区域は日本と満州で既に満州鉄道から続く鉄道網が整備されていました。
内蒙古西部地域でも当然、分離独立の機運は高まっており、蒋介石政府としては「離脱」は絶対に回避したいところです。蒋介石は、満州国の建国以降、内蒙古(モンゴル)の西部への軍事進出を画策していきます。
こうした背景の中で、綏遠事件が起きて行きます。場所は、内蒙古西域の百霊廟という、古来からの有名な寺院がある「政治的な要所」でした。
上記の地図で、北京の西側に大きな山脈があるのが判ります。この山脈は太行山脈と言い、標高1500m級の高い山脈が北京の西北部から南西方向へ400Km程伸びた巨大な山脈です。北京の北西部が標高が低くなっていおり、内蒙古西域へは、北京から、地図の左側にある張家口という都市へ抜けるルートが古くからありました。当時は、既に、内蒙古西域からの物資を運搬するため、北京を経由して天津方面へ鉄道が開通していました。これにも日本が大きく関わっていたことは言うまでもないでしょう。中国での北側の大河である黄河が地図上で北から南に大きく折れ曲がりっているのを想像頂ければ、これが内蒙古と中国中原地域との自然の巨大防壁であり、境界線であることが分かります。