日中戦争で日本は大敗の連続だったとの歴史理解が一般的です。しかし、実際には圧勝でした。日中戦争は圧勝し、太平洋戦争で惨敗したのです。
当時の中国では欧米諸国の植民地支配の危機を抱えるなか、欧米派の南軍(蒋介石)と反植民地派の北軍(清朝満州族)との間で南北戦争が激化。日本は豊富な天然資源を持つ中国北部の満州族との関係から、北軍側に付き、蒋介石率いる南軍と衝突。なぜ日本が圧勝していたのかの真相を解くカギとなるといえるでしょう。
日中戦争は、「中国侵略は冤罪」で述べている通り、その前段階として、中国での大きな「南北戦争」があります。一旦、南部政府(蒋介石)が北部政府を軍事侵攻により、吸収統合を果たしますが、蒋介石は「軍人」であり「政治家」では無かったようです。戦後の「台湾」での統治を鑑みれば想像は易いと思いますが、独裁志向が非常に強い人物でした。南部政府による中国統一後も、貢献した側近や同盟軍閥の指導者などを、暗殺や政治失脚に追い込んでおり、こうした政治志向から、ほどなく「内部分裂」を起こしていました。それでも、継続していた理由は、やはり中国の植民地化を推進していたイギリスとフランスの軍事支援が大きかったといえます。
日中戦争は、蒋介石の南部政府から、中国の各地域を独立させるために、日本が「表の顔」として協力したことで起きた「軍事侵攻」です。中国人の戦争犠牲者を出来る限り抑え、中国の都市部の破壊を出来る限り回避し、尚且つ、蒋介石政府下の都市を、小規模部隊の日本が奪うには、当然、事前に水面下での「打ち合わせ」があった上です。表向きは、日本が「占領」や「占拠」でしたが、実質的には、北部政府を中心とする政府の「奪回」でした。その為、日本は、実際はあ、殆ど戦っていません。各地を巡っていたという表現が正しいと思います。これが、小規模軍隊の日本が、10倍以上、時には15倍近い「兵力」を持つ「蒋介石軍」に圧勝していた「真相」です。
日中戦争後、中国では、中国5大民族による「新支那政府」が成立しますが、これを受け、生き残った「蒋介石」が、返り咲きを狙って、「アメリカ」に軍事支援を求め、「アメリカ」と「日本」を戦わせるよう仕向けた結果、太平洋戦争が勃発しています。「蒋介石」は、本来は、当時アメリカの植民地であった「フィリピン」から、中国本土へ進軍させ、中国本土で、アメリカと日本を戦わせようとしましたが、それに気が付いた日本が、戦場を中国から引き離すために、太平洋の真ん中に位置するハワイへ先制攻撃(真珠湾攻撃)を仕掛け、ここから太平洋上での戦争が勃発しました。これを勃発地域から「太平洋戦争」と呼んでいますが、「日米戦争」が勃発しました。
日本が先にハワイの真珠湾を「奇襲」の如く攻撃したため、日本が本当に「悪者」になりましたが、実際には、中国本土での大戦争を回避するために、苦肉の選択として行ったものでした。日本は、既に、日中戦争により、国家経済的に「余裕がある」状況ではなく、一方で、アメリカは、第一次世界大戦は殆ど関与せず、第二次世界大戦でも、自国の本土が戦場となることはなく、経済的には「非常に裕福」な状況でした。
日本には相当厳しい戦争であり、「満州帝国」が石油や鉄鉱などの天然資源を日本へ提供し、日本は必死に戦いましたが、「原爆」など、アメリカの最新兵器による攻撃には耐え切れず、日本が敗戦しました。当時の日本は「国家存亡の危機」というほどの「壊滅状態」に陥り、その後は、必死の努力で持ち直し現在に至っていますが、その道のりは「血と汗と涙」という言葉が相応しい状況だったと思います。
蒋介石は、アメリカと日本を戦わせるために、夫人の宋美齢と共に「日本側が中国人への大虐殺を繰返している」と政府と大衆に訴え、「日本の中国侵略」という冤罪を捏造しました。戦後に、日中間の大論争をなっていた「南京大虐殺の証拠」とされる写真は、蒋介石がアメリカを騙す目的で、自ら中国人を虐殺し、日本軍が遣ったように装って、制作したものです。
このサイトを通じて、日本の事情を説明する事で、アメリカの誤解が解け、改めて、お互いに「良好な友人関係」を続けようと思えれば有難いと思います。