11ー中国民主革命での主要人物

11ー中国民主革命での主要人物

日中戦争の真相を理解するに当たり、当時の中国を政治的に主導していた人物と日本との関係を知っておく必要があると思います。北部政府は、袁世凱、張作霖、張学良の3人。南部政府は、孫文、汪兆銘、蒋介石、毛沢東の4人で、中国の民主独立革命に主導者だった人物です。

中国北部(満州民族系):袁世凱、張作霖、張学良
中国南部(漢民族系) :孫文、蒋介石、汪兆銘、毛沢東

日中戦争が、支配層の満州民族から、被支配層の漢民族による民族独立戦争のであった様相を考えれば、「中国民主革命の主要人物」が中国南部出身であるのは当然です。一方、「日中戦争の重要人物」が中国北部の満州民族出身であることも当然です。この7人は、全員、日本の歴史でも学習する人物ですが、一般的には、夫々の関係性などは殆ど知らない方が多いと思われます。

中国は、当時、1)中国南部の漢民族からすれば、中国東北系異民族である満州民族の清帝国の支配からの独立、そして、2)中国全体としては、中国の植民地化を進めるイギリスからの独立を達成する必要がありました。まず、この7人だけに絞り、どういう関係にあり、どんな役割を担ったか時代とともに追ってみたいと思います。

第1期ー清帝国からの独立革命(辛亥革命)時代

<南部>

孫文: 清帝国からの民主独立革命のリーダー。

1911年10月10日、辛亥革命を起こす。
これにより、清帝国は1912年2月12日皇帝が退位し滅亡。
中国の独立と再建には当初は日本に協力支援を求める立場を取った。
その後はアメリカやヨーロッパ諸国に独立革命支援を求めた。

1866年11月12日生 ― 1925年3月12日没
中国南部の広東省の出身(香港のある地域)

満州民族の征服王朝である清帝国から、支配下の漢民族による国家独立と中国の再構築を意図し、中国南部で民主革命を起こした人物。革命当初はアメリカやヨーロッパ諸国に支援(軍事支援)を求めたが、一方、ヨーロッパ諸国による中国の植民地化危機の認識もあった。北部政府とは、軍事衝突ではなく、政治的和平交渉により、中国の南北統一民主政府の達成を目指した可能性がある。晩年はガンに侵されたが、北部政府下の北京で療養、北京にて死去。汪兆銘が看取ったと言われる。

辛亥革命を成功させるために、袁世凱と協力体制を取ったと言われる。しかし、1912年2月、清帝国の滅亡後、袁世凱により追放され、日本に再度亡命している。(1913年8月から) この時、日本で、資金面での支援者であった在米中国人の実業家、宋嘉澍の次女である宋慶齢と結婚し、宗家と親戚関係になる。孫文は、この宋嘉澍を通じて、アメリカ政財界とのパイプを作った。宋嘉澍は、その後の蒋介石政権での経済支援団体である浙江財閥(浙江・江蘇両省出身の金融資本家集団)の母体形成に大きく関与した人物。

<北部>

袁世凱:  清帝国に属する主要な軍人の一人。

1911年10月10日の辛亥革命では孫文の協力者と言われる。
清帝国の軍人出身。清帝国軍の中心人物(総統かそれに近い地位)。
清帝国軍を背景に、清帝国末期の王朝政府の中心人物。
1912年2月12日、清帝国の皇帝を退位させ滅ぼした。
清帝国後の北部政府の建直しのため日独露英仏から分散支援と資金借款。
1912年3月10日、清帝国滅亡後、共和制の臨時政府の大統領となる。
1915年12月12日、自らを皇帝とする中華帝国を樹立するが3カ月で終焉。

1859年9月16日生 ― 1916年6月6日没
中国北部の河南省の出身(黄河の南側にある省)

清帝国の軍事力を掌握し、清帝国最後の皇帝から実質的に政権を奪った人物。民主制や共和制を唱え、清帝国滅亡後は新たな政府を作るが、実際には自分を皇帝とする帝国を築き独裁政権を志す。辛亥革命の成功後は、革命協力者であったとされる孫文を迫害。しかし、翌年には尿毒症により病死している。

第2期ー 辛亥革命後から日中戦争時代

蒋介石、汪兆銘、毛沢東は、日中戦争時代に活躍した主導者達です。彼らは南部漢民族の独立に深く関わり、南部地域の独立を宣言し、清朝を終焉させる原因を作りました。その後は、北部満州民族政府を打倒し、中国の南北統一政府を目指したものの、達成することなく、58歳で病死します。

蒋介石、汪兆銘、毛沢東は、孫文の側近や孫文政府の要人でしたが、孫文の死後に、夫々の政治理念の違いにより分離し、それはやがて「孫文の後継者争い」に発展して行きます。この3名の主導者達は、南部政府の分離弱体化を回避するため、協力体制を取ることもありました。しかし、最終的には完全に対立して行きました。毛沢東は、年代的に、蒋介石と汪兆銘より年齢が少し若かったようです。蒋介石と汪兆銘の政権争いでもあった「日中戦争」の終焉後、中国の政権の中心へ浮上して行きます。

 

<南部>

蒋介石:孫文の辛亥革命の協力者。孫文の後継者の一人

1911年、辛亥革命に参加し孫文と出会う。
辛亥革命後に孫文が日本へ再度亡命すると、帰国のために奮闘する。
中国の独立と再建には、イギリス・フランスなどヨーロッパ勢力を利用する立場を取る。
日本とロシア(共産主義)と対抗していた。

1887年10月31日生 ― 1975年4月5日没
中国南部の浙江省の出身

蒋介石はイギリスを軍事兵器の支援提供国とし、浙江財閥を通じてアメリカを軍事資金の支援国としていた。孫文から、ヨーロッパ諸国とアメリカとの軍事支援関係を引き継いだ。孫文の死後、1927年12月、孫文の義理の妹(在米中国人の実業家、宋嘉澍の三女である宋美齢)と結婚し、孫文の義理の弟(親族)となる。これにより、孫文の正当な後継者であると主張。

支援国のイギリスと、ヨーロッパで敵対していた共産主義下のロシア(ソビエト)とは、中国でも敵対関係にあった。度々、毛沢東率いる共産党撲滅のため軍事攻撃をしている。その際、毛沢東の二人目の妻を逮捕処刑しており、その三男も死亡。毛沢東にとっては家族を殺した人物。

汪兆銘:孫文の辛亥革命の協力者。孫文の後継者の一人。

1894年、孫文の率いていた革命組織であった興中会に参加し孫文と出会う。
中国の独立と再建に当たり、蒋介石と組み、分裂化した南部勢力の統一化を図るが失敗。
最終的には、蒋介石と対立し、日本と協調。
ヨーロッパ勢力を排斥する立場を取る。
ヨーロッパ諸国とロシア(共産主義)と対抗していた。

孫文と同郷であり、孫文の本来の後継者として、日本との協力の下、中国を中国5大民族による連合国家として再構築するという「新支那中央政府構想」の漢民族側の代表であり、新支那中央政府の初代大統領。1944年、日本にて病死。(新支那中央政府構想については別途記事にて説明 →リンク)

1883年5月4日生 ― 1944年11月10日没
中国南部の広東省の出身(孫文と同郷)

 

毛沢東:孫文の辛亥革命の関係者。孫文の最終的な後継者。

1911年、辛亥革命で反政府軍に所属。
中国の独立と再建には、共産党主義下のロシア(ソビエト)と協調する立場を取る。
反共産主義のヨーロッパ勢力と対抗していた。
ヨーロッパ勢力と強調していた蒋介石と対抗していた。
日本とは表面上は対抗しつつ水面下で協力。


当時のロシア(ソビエト)は、日本と同様、アジア極東地域におけるヨーロッパ諸国(西ヨーロッパ諸国)の植民地化に対抗していた第3の勢力。日本とはアジア極東地域では共通の利害の下にあった。そのため、ロシア(ソビエト)と共に、表面上は対抗しつつ水面下で協力。孫文の後継者との認識があったかは不明だが、最終的に毛沢東が「統一中国」の国家主権を最終的に掌握した。

1893年11月19日生 ― 1976年9月9日没
中国南部 湖南省の出身(香港の有る広東省の北側の省)

<北部>

張作霖:袁世凱の死後、北部政府(北京政府)の主要人物。

袁世凱の死後、出身地奉天の名をとり、奉天派を統率。
1926年12月、北部北京政府にて大元帥に就任。
北部政府と北部政府軍の総統。
中国南部の独立革命軍(南部政府軍)に対抗するため、日本と協調。
1928年5月31日 北京の無血開城を英断。
1928年6月3日 満州帰国のため列車にて出発。
1928年6月4日 奉天近郊で列車爆破にて死亡。

1875年3月19日 生 ― 1928年6月4日没
中国東北部(満州)奉天省の出身(満州馬賊の出身)

1926年7月頃から、蒋介石が「北伐」を開始し南部政府軍を率いて北上を開始すると、北部政府もこれに対抗する為、軍隊の整備を進め、同年1926年12月には、張作霖を大元帥とし北部政府軍を確立し強化を図った。その後は、南部政府主導の下での中国「統一政府」を目指す蒋介石との間で、「北伐」という名の南北戦争が北部へ本格的に拡大。イギリスなどの軍事支援を得て、蒋介石が北京近郊まで迫ると、張作霖は、北京での市街戦を回避し、南北政府の和解による統一政府達成に同意。中央政権を離脱し、故郷の奉天へ帰国。その際に暗殺された。犯人は、当然、蒋介石。

この爆殺事件については、「張作霖列車爆殺事件の真相」で詳しく述べます。

張学良:張作霖の息子。満州と北支での政権と軍事基盤を引き継いだ人物。

1928年6月4日以降、父親より、奉天軍閥、満州地域の政治経済基盤を継承。
1928年12月29日 易幟(えきし)=北部政府旗の変更を決定。
1929年1月以降、蒋介石政府の傘下に入る。東北軍の総司令。
1936年12月12日 西安事件を起こす。それ以降、蒋介石により生涯幽閉。

1901年6月3日 生 ―  2001年10月14日没
中国東北部(満州)奉天省の出身(満州馬賊の子孫)

張学良については、歴史的な人物として評価が高くないようです。満州民族出身でありながら、蒋介石の重要側近となった裏切り者。しかし、蒋介石を軟禁した西安事件を起こし、蒋介石にとっても裏切り者。本来なら処刑されるべきですが、処刑にはならず、その後も生涯に渡り、蒋介石に捕われの身となっていました。

しかしながら、私の歴史研究では、張学良が満州の分離独立に最も貢献した「立役者」であり、日本が日中戦争(日蒋戦争)に圧勝出来た理由です。

張学良については、「西安事件の真相」で詳しく述べます。

第3期 日中戦争終結から共産主義体制以降

アメリカに敗北した日本が中国から完全撤退した後、アメリカの軍事支援を得て中国へ戻った蒋介石と、ロシア(ソビエト)とパイプを持つ毛沢東との間で、中国の主権を巡り軍事衝突に至ります。最後は毛沢東が蒋介石を国外追放し、中国の政治体制を共産主義へ主導し、現在の中国の基礎を作って行きました。

<南部>

蒋介石:孫文の辛亥革命の協力者。孫文の後継者の一人。

1911年、辛亥革命に参加し孫文と出会う。
辛亥革命後に孫文が日本へ再度亡命すると、帰国のために奮闘する。
中国の独立と再建には、イギリス・フランスなどヨーロッパ勢力を利用する立場を取る。
日本とロシア(共産主義)と対抗していた。

1887年10月31日生 ― 1975年4月5日没
中国南部の浙江省の出身

蒋介石はイギリスを軍事兵器の支援提供国とし、浙江財閥を通じてアメリカを軍事資金の支援国としていた。孫文から、ヨーロッパ諸国とアメリカとの軍事支援関係を引き継いだ。孫文の死後、1927年12月、孫文の義理の妹(在米中国人の実業家、宋嘉澍の三女である宋美齢)と結婚し、孫文の義理の弟(親族)となる。これにより、孫文の正当な後継者であると主張。

支援国のイギリスと、ヨーロッパで敵対していた共産主義下のロシア(ソビエト)とは、中国でも敵対関係にあった。度々、毛沢東率いる共産党撲滅のため軍事攻撃をしている。その際、毛沢東の二人目の妻を逮捕処刑しており、その三男も死亡。毛沢東にとっては家族を殺した人物。

 

 

毛沢東:日中戦争終結後、中国の中心指導者

中国の独立と再建には、共産党主義下のロシア(ソビエト)と協調する立場を取る。
反共産主義のヨーロッパ勢力と対抗していた。
ヨーロッパ勢力と強調していた蒋介石と対抗していた。
日本とは表面上は対抗しつつ水面下で協力。


日本の敗戦後は蒋介石の後ろ盾となったアメリカと対抗。
日本がアメリカに敗戦し中国から撤退後、蒋介石と軍事衝突。
蒋介石に勝利し、蒋介石を中国から追放した。
共産主義により「統一中国」の国家主権を最終的に掌握。

1893年11月19日生 ― 1976年9月9日没
中国南部 湖南省の出身(香港の有る広東省の北側の省)

 

当時のロシア(ソビエト)は、日本と同様、アジア極東地域におけるヨーロッパ諸国(西ヨーロッパ諸国)の植民地化に対抗していた第3の勢力日本とはアジア極東地域では共通の利害の下にあった。そのため、ロシア(ソビエト)と共に、表面上は対抗しつつ水面下で協力。孫文の後継者との認識があったかは不明だが、最終的に毛沢東が「統一中国」の国家主権を掌握した。

結果、孫文の目指した「南部漢民族の主導する統一中国」は達成出来たといえる。

 

 

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

日本ブログ村に入村しています。

読み終わったらクリックお願いします。