新支那中央政府樹立の真相2-新支那3巨頭の歴史的会見
昭和14年9月19日 南京にて、新支那中央政府構想の中心人物である汪兆銘、北京の「中華民国」臨時政府代表の王克敏、南京維新政府の代表である梁鴻志による、新支那3巨頭の会見が行われました。
昭和14年11月(1939年11月)発行「歴史写真」から
昭和14年9月(1939年9月)活氣横溢する中支戰線
記事:
久しく静まりゐたる我が中支那派遣軍は、九月中旬に至り、俄然活潑なる運動を起こし湖南省洞庭湖の東南地區に於ては猛烈果敢なる進撃を続行、かくて敵が年来の據點を恃む長沙の 要衝ら亦途に近く我軍の占拠するところとならんとしつつある。
写真:
寫真の (右)九月十五日南京告軍官學校に於て舉行せられたる中支派遣軍第三回合同慰霊祭に山田最高指揮官の祭詞朗讀。
(中上) 洞庭湖東岸新婚河を 敵前渡河せんとする我軍が煙幕遮蔽 の光景。
(左上)場子江南岸地區の敵 陣に進擊する陸戰隊。
(左下)九月十九日、南京に於ける新支那三巨頭の歴史的會見で、中央は汪兆銘氏 土克敬氏、左は梁鴻志氏である
昭和14年9月19日(1939年9月19日)新支那3巨頭の歴史的会見
記事:(左下)9月19日、南京における新支那3巨頭の歴史的会見で、中央は汪兆銘氏、右は王克敏氏、左は梁鴻志である。
上記の写真に写る王克敏は、昭和12年12月14日(1937年12月)に樹立した北京臨時政府の代表でした。同日、南京では、南京自治政府が成立し、約4か月後の昭和13年3月28日(1938年3月)に南京維新政府が樹立しました。梁鴻志はこの政府代表だった人物です。
この2者と、新支那中央政府の代表となる汪兆銘とで、南京において初の3者会談が行われました。この会談では、北京と南京の政府を合体し、更に、周辺の4民族と団結し、現在の中国に相当する「大きな1つの政府」を形成するという新支那中央政府構想の、実現化に向けた会談でした。
中華民国という国名
蒋介石は、北伐により、北部の北京政府より「中華民国」を奪い、自らの南京政府を「国民政府」として中国全土の実権を握りましたが、中国全土からの離反の動きを受け、政府崩壊に至ります。
蒋介石政府の崩壊後、北京政府は「自分達の国家」であった「中華民国」を奪回し、その名称を継続使用しました。一方、蒋介石は、南京追放後も、自らが「中華民国」の代表であると主張し続け、アメリカと中国へ戻った際も、台湾へ追放後も、台湾を「中華民国」として独裁を展開しました。
北部の北京政府にすれば、奪回したのですから、「中華民国」を国名とするのは当然だったと思いますが、そうした歴史背景を知らない人々にとっては、まるで当時の中国には蒋介石だけの政府が存在していたかの様な「誤解」や「混乱」が生じる結果となりました。確かに、中華人民共和国が樹立するまでは、北部でも南部でも、「中華民国」であったでしょう。本来は、国家として政府は一つであるべきですが、乱立していたため、混乱する原因となったと思います。
そして、汪兆銘が樹立した新支那中央政府の真実については、日本の傀儡政府という虚偽の情報だけが広まり、その実態は殆ど知られずに現在も誤解されたままです。
中国では、汪兆銘は中国を裏切った「裏切者」として理解されています。新支那政府構想の実現に尽力した王克敏も梁鴻志も、戦後は「中国の裏切者」、日本側に協力し中国を破滅させようとした人物として処刑されています。事実は、イギリスの手下となっていた蒋介石を排斥し、中国の再生に大きな貢献した人物でした。新支那政府は、中国という国家の安全を図るために、漢民族を中心に、満州、蒙古、ウイグル、チベットの4民族と共に「大きな中国」を目指した政府であり、現在の中国の母体となったといっても過言では無いでしょう。
蒋介石の「中華民国」とは、名前は同じでも全く異なる国家だったといえます。