新支那中央政府樹立の真相1-汪兆銘のラジオ演説
昭和14年(1939年)7月の日英会談(有田・クレーギー会談)後、日本政府と、奪回後の「中華民国」新政府は、中央の漢民族、東北部の満州民族、北部の内蒙古民族、西北部のウイグル民族、西部のチベット民族の、中国5大民族を結合した「連合国」による政治体制の構築を本格的に目指していきます。新支那中央政府構想の実現化です。
その中心人物として、孫文の本来の後継者である汪兆銘が政治の表舞台へ出てくるようになります。汪兆銘は孫文と出身地が広東で同郷であり、後継者候補の3人の中では最も早くから孫文の下で動いていました。孫文は、1925年に没していますが、汪兆銘が孫文の最期を看取ったとも言われています。
新政府の樹立では、北部ではなく、南部出身の汪兆銘が中心人物となった理由は、辛亥革命が元々、漢民族の独立革命だった事が大きいでしょう。中国の南北戦争時代は、蒋介石政府の壊滅と、イギリスの中国撤退の決定で、一旦収束しましたが、満州民族の流れを汲む北京政府が中心となれば、再び、南部の漢民族から反発が起きる可能性が高いことから、 孫文に最も近い側近であり、南部の漢民族出身であった汪兆銘が抜擢されたのでしょう。孫文との関係から、北京政府とも日本とも深い関りがあった人物でした。
孫文は、日本人女性と一時期結婚していた事もある親日家でした。日本も孫文については、孫文中山先生と敬意を持って接していました。孫文は革命家ではありましたが、軍事制圧など破壊行為や人的被害を出すような過激な方法ではなく、あくまでも協議による平和的な体制変革を望んだ人物でした。日本の大政奉還という政治変遷の手法を非常に高く評価していた人物の一人でした。蒋介石は、孫文の政府からは追い出され、軍事学校の校長を任されましたが、汪兆銘は孫文と考え方も近く、側近として後継者として、一目置かれる人物だったと言えます。
日英会談の翌月、昭和14年(1939年)8月9日、中国の廣東市で、中国5大民族の結束と新支那中央政府の発足に向けて、ラジオ演説を行いました。当時の中国の市民に、本来は、汪兆銘が孫文の正当な後継者であることを示す意図があったといえます。
昭和14年10月(1939年10月)発行「歴史写真」から
昭和14年8月(1939年8月)汪兆銘のラジオ演説
記事:
夙に(つとに)、蒋介石一派より離脱して、東洋百年の繁栄の為め、敢然(かんぜん)起きて和平救国を叫びつつあった現代支那第一流の偉才汪兆銘氏は、8月9日午後9時(日本時間同10時)廣東より、”如何にして和平を実現するか”と題し、約30分間に亘る廣東語の放送を行い、烈々たる憂国の赤誠と信念とを吐露して、全支国民に多大の感銘を與へた(あたえた)。當夜(当夜)廣東80萬の市民は、この新中国の指導者にして又4億民衆の救世主たる汪氏の謦咳(けいがい)に接せんとして、全市のラジオは悉く(ことごとく)スウイツチを入れられ、ラジオを持たぬ人達は、市内の盛り場に特設されたるラウド・スピーカーを圍んで(囲んで)、͡此の大演説の一句をも聞き洩らさじと利き耳を立てたのである。
写真:
寫眞(写真)の(右下)は當夜(当夜)廣東市内四牌路(スーパイル―)に於て放送を聴く支那民衆。
注)夙に(つとに):大分以前から /敢然(かんぜん):思い切ってする様 /赤誠(せきせい):真心(まごころ)/與へる:与える /謦咳(けいがい)に接する:尊敬する人の話を聴く事 /四牌路:スーパイル―
新支那中央政府構想
新支那中央政府構想とは、まず北京と南京2つの政府を統一し、新しい統一政府として成立させ、更には、周辺民族と連合し、「大きな中国」を作る構想でした。南京陥落と同時に、北京と南京に2つの臨時政府を樹立したのも、この構想が基になっています。また、これには、北部の満州民族系政府と、南部の漢民族系政府の統合という意味がありました。これに、蒋介石の「北伐」以降、実質的に分離状態となったその他の3つの民族を結合し、中国の5民族による政府を樹立するというものでした。
この「大きな中国」構想は、元々、旧北京政府の五色旗の示す通り、清帝国が帝政から共和制に大政奉還した頃からの構想であったといえます。蒋介石の南部政府の潰滅作戦(内部崩壊工作)は、1928年6月の北京無血開城、12月の易幟(国旗変更)以降、張学良を中心に着々と進められましたが、反蒋介石の各派が、新しい統一政府の樹立に向かって動いていたからこそ、1937年12月の南京攻略の直後に、南京と北京に、同意に臨時政府を樹立することが可能だったといえます。当時、北京では「中華民国」としての臨時政府が樹立されています。蒋介石から「中華民国」を奪回した事、そして、蒋介石の国民政府が崩壊した事を中国全土に明示する意味があったといえます。
更には、昭和14年(1939年)7月の日英会談を経て、イギリスの中国からの撤退が確実となり、ようやく条件が揃ったので、新支那政府構想を実現する為、新支那中央政府の中心的指導者となる汪兆銘が政治の表舞台に出たのです。
汪兆銘に関する誤解
現在の一般的な歴史認識では、汪兆銘は、日本の傀儡政治家であり、「中国の裏切り者」という評価になっていますが、これも、日本の敗戦後、蒋介石が中国での復権を目指すに当たり、蒋介石政府を倒した日本と、その後に樹立した新支那中央政府を「悪者」にする必要性から、蒋介石が広めた捏造話だと考えます。また、蒋介石を国外排斥した後、中華人民共和国を樹立した中国共産党は、国家の政治体制を一気に共産主義化する必要性が有り、歴史としては当然の流れですが、それ以前の政権については「否定的な立場」を取ったことも、汪兆銘の悪評を高める要因となったといえます。
蒋介石は、南京大虐殺事件や、中国市民への残虐行為、中国での細菌ウイルスの散布、猛毒兵器の製造と人体実験など、全ての悪行を、日本に罪を被せました。当時の中国共産党は、日本の敗戦直後は、比較的規模の小さい党組織であったといえます。1936年の西安事件の際には、中国共産党軍は7万人の兵力まで落ち込んでおり、その後も、急激な増加は無かったと考えます。そのため、蒋介石が「中華民国」時代に行っていた凶悪極まりない残虐行為については、十分な資料も調査もしていなかったでしょう。
蒋介石は、そうした状況を巧みに利用して、日本を陥れる証拠書類を捏造し、また、蒋介石を支援する欧米諸国の記者の書籍や日記などに虚偽を書かせ、全てを日本のせいにし、また、日本が支援していた旧北京政府を「中国の裏切り者」として、戦後のシナリオを作ったのです。
南京大虐殺事件については、当時の欧米の記者なども虚偽の記事や日記を実際に公表しています。しかし、私がこのサイトへ載せた当時の実際の写真や記事をみれば、南京大虐殺があったとする記事や日記が虚偽であることは明白です。当時は、蒋介石により、こうした情報操作が徹底的に行われました。
そうして、間違った歴史が一般認識として定着する不幸が起きたといえます。結果的に、日本と中国(中華人民共和国)との間の関係に不信感や不和が生じたと言えます。汪兆銘も、当時の植民地化の危機から脱するために、5民族が一致団結した政府体制を構築するために努力していただけであり、中国を裏切ってなどいませんでした。
本当に「中国を裏切っていた」のは蒋介石です。日本も、新支那中央政府を構成した要人達も、中国を裏切ってなどいませんでした。私のサイトを通じ、当時の歴史が訂正され、こうした人生掛けて中国のために生きていた中国人の名誉が回復される日が来ることを祈ります。